「BUMP OF CHICKEN HISTORY #1」増川弘明インタビュー
2026.06.12
街を歩いている人が二度見するくらい声が高い子でした
――幼稚園時代にメンバーのみなさんと出会っていたそうですが、その時の記憶にはどんなものがありますか? 増川:僕はその頃はあんまり物心がついてなかったんで、あんまり覚えていないんですよね。ただ、よく粗相をしていた子でした。親からカバンに替えのパンツを用意されていて、たまに漏らしてしまったら先生に着替えさせられていた。その様子を見ていた他のメンバーもいたみたいです。そんな感じのタイプで、誰か特定の子と遊ぶ感じでもなかった気がします。でも年少から同じ「ひよこ組」だったし、一緒にはいました。 ――その頃のみなさんの印象は? 増川:チャマはやんちゃな子供だった印象ですね。藤原くんとの記憶はあんまりなくて、みんなで遊んだ中の一人という感じです。 ――藤原さんもチャマさんも、子供時代の増川さんはとにかく声が高かったと言っていました。 増川:なんでかはわからないけれど、本当に高かったです。街を歩いている人が二度見するくらい声が高い子でした。今の僕の声より3オクターブくらい高かったんじゃないかな。あと、線も細くて、お腹も弱かった。親が言うにはしょっちゅう泣いている子供だったみたいです。ちょっとしたことで病院に行っている記憶がありますね。 ――小学校時代はどんな子供でしたか? 増川:小3くらいまでは幼稚園とそんなに変わらなかったです。近所の友達と遊んだり、家で自分だけの世界にいるみたいな感じでした。その頃までは学校でもぼーっと過ごしていました。で、4年生になってからチャマと同じクラスになって、すごくよく遊ぶようになりましたね。升くんとも家が近かったので、みんなで公園に行ってそこにいたら一緒に遊ぶ子みたいな感じで。そこから学校が楽しくなったというか、ようやく社会性が出てきた気がします。その頃から思い出もハッキリしてくるんですよね。声が高かったんで、担任の先生に「合唱部に入りなよ」って言われて。イヤだったんですけど断りきれずに入ったら、その部活がコンクールとかに出るようなすごく厳しいところで。小学校なのに朝練をやったりするんです。 ――チャマさんとはどんな関係でしたか? 増川:その頃、給食の時間に笑わせ合うみたいなことが流行ってて。お互いに笑わせ合って、牛乳を吹き出させちゃうんですよ。「絶対笑わせるのナシにしようぜ」とか言い合っても、ちょっかいをかけちゃう。だから早く飲んだりしてる子もいたし。僕はそれで無双してました(笑)。チャマは弱いほうでしたね。 ――小学校時代にハマってたものとか、好きだったものは? 増川:実家の近くにお寺があったり、竹藪があったりして、自然豊かな環境だったんです。そういうところで暗くなるまで遊ぶのが好きでした。近所の友達とそういうところでずっと遊んでました。うちはファミコン禁止だったんですよ。でも友達はみんなゲームを持ってるんで、その友達の家でゲームをさせてもらうのが楽しみで。特に『ドラクエ』とかはすごく流行ってたから、話についていけないと悲しくて。ノートに『ドラクエ』っぽい感じのマップを書いてたりしてました。 ――絵を描くのは好きでした? 増川:好きでしたね。下手でしたけれど、いろんなキャラクターを自作して、それを登場させた変な4コマ漫画を描いて楽しんでたりしました。それをチャマにも読んでもらったりしていて。学校に『火の鳥』を持ってきて本棚に置いてくれる友達もいたんで、『火の鳥』も読んでました。難しくはあったけれど「なんかすごいな」と思った気がします。自分の家にはなかったんで、友達の家で読んだんですけれど。『大長編ドラえもん』も好きでした。あとはカードダスもやってたし、プラモとかミニ四駆とかもやってたし、ジオラマを作ってみたりもしてました。地元のおもちゃ屋さんにも行ってました。
藤原くんとの再会は、人生でも最も大きな出会いだった
――藤原さんは、小学生の時におもちゃ屋さんにあるミニ四駆のコースで増川さんに会ったと言っていましたが。 増川:そうなんですよね。彼はちゃんと俺のことを覚えていて声をかけてくれたんですけど、その時は話が通じてなかったと思います。小学校の時の友達の間で、外国人がよくやる「ホワイ?」みたいな肩をすくめるジェスチャーが流行っていて、それをひたすらやり続ける、みたいな。声をかけられたことも覚えてるんですけれど、ただただ一緒にいる友達との間で流行ってることを浴びせたい、みたいなことしか思ってなかった。しょうもない男子でしたね。あんまり何も考えてなかったと思います。 ――中学に入って、藤原さんと再会したときはどんな感じでしたか? 増川:そこでようやく記憶が合致したという感じです。「あ、もっちゃんね」という感じでした。幼稚園の時のことはなんとなく覚えていたけど、小4の時はそこと結びついてなくて。中1になって「なんであの時、あんな変な感じだったんだよ」と言われて、そこでちゃんと「久しぶり」って思えた感じだったという。 ――そこから増川さんは何か変わりました? 増川:本当に変わりました。藤原くんとの再会は、人生でも最も大きな出会いだったと思います。僕は小学校では面白いキャラとしてブイブイいわせていたんですよ。男子を中心に人気者っぽい感じで過ごしていた。でも、中学校に入って彼と出会って「こんなに俺より面白いことを考えてるやついるんだ」みたいに思ったんですよね。で、同じクラスになって。当時は『スラムダンク』が流行ってたし、誘ってくれる子がいたからバスケ部に入部した。そしたら藤原くんもそうで。そこからは、休み時間も、部活も、昼休みも、放課後も、部活が終わった後も、ずっと一緒に遊んでました。 ――その時の藤原さんの印象ってどういうものでした? 自分より面白いというのは? 増川:別に面白いことを言うとかじゃなくて、ワクワクするような想像の話でも、すごくわかってくれるんです。「もしもこうだったら」みたいなことを、すごいレベルの解像度でわかってくれる。笑いのツボとか、ワクワクするところとか、そういうポイントが僕とバッチリ合ってたんだと思います。それがすごく嬉しかった。ただ、一緒に遊ぶって言っても、ジャスコに行ってフードコートでラーメン食べたりするくらいで。チャリに乗って集まって、何をするわけでもなく一緒にいるという。最初はその関係性の中に音楽は何もなかったです。 ――増川さんの音楽との出会いはどんなものでしたか? 増川:ヒットチャート自体が流行ってたから、そこにあったようなJ-POPはいろいろ聴いてました。B'zとか好きだったし、BOØWYとかも先輩の世代のアーティストだと思うんですけど、そのあたりは周りで流行ってたし、CDも家にあって聴いてました。CDラジカセも家にあったし、クラシックの名曲みたいなのもあったりしましたけれど、それはあんまり聴いてなかったかな。TSUTAYAに行ってCDを借りてカセットテープにダビングするみたいなことはすごくやってました。
朝の4時に起きて家をこっそり抜け出して、藤原くんとよく空想の話をしていた
――最初に藤原さんたちが文化祭でバンドをやったときは、増川さんはそこには加わってなかったそうですが。 増川:そうですね。友達として見てました。みんなとは仲が良かったんだけど、中2になって別のクラスになったんで、そこの友達とも仲良くなっていて。文化祭の前、藤原くんが一度だけバンドに誘ってくれたことがあったんです。でも、そのときは升くんがお姉ちゃんから教えてもらったビジュアル系あたりの音楽もあんまり聴いてなかったし、「すごい仲良かったフジくんがちょっと知らないことを始めてしまった」みたいな嫉妬があって。で、その時は参加しなかったんです。楽器を買うようなお金もなかったし、バンドをやろうっていうのがどういうことなのかも、あんまり意味がわかってなかった。だから仕方なかったんですけれど。でも、文化祭でワーワーやってるのは応援してました。「すげえじゃん!」みたいな感じで見てました。その後のクリスマスコンサートも手伝ってましたね。意味もわかってなかったけど「レディース・アンド・ジェントルメン」みたいなことを言って、幕を開けたりして。でも大成功だった文化祭とは全然違っていて。文化祭は学校行事だからみんな参加するんですけれど、そうじゃなくて「よかったら集まって」っていうのはハードルが高いことなんだなって思いました。 ――そこから増川さんがバンドに加わったのはどういう流れだったんでしょうか。 増川:もちろん付き合いはあったし、一緒に遊んだり手伝ったりはしていたので、僕の中にも、素直に「できたらやりたいな」みたいな気持ちがあったんですよね。で、中学卒業の直前に藤原くんがもう一度誘ってくれたんです。その前段階として、藤原くんの持っていたエレキギターを僕の家に隠してたことがあって。中3の時だったと思います。彼はアコギは持ってたんですけれど、エレキギターを買うのはダメだと言われていて。でも貯めたお小遣いで買っちゃったんですよね。それで、藤原くんの家には置いておけないから。僕の家に隠していたんです。実家の僕の部屋は当時1階にあったんで、窓を開ければ玄関を通らずに靴を脱いで入れる感じだったんです。学校からも近かったし、そういう環境でもあったんで、彼がギターを触りたくなったら寄って弾いていけるし、そこからチャマの家に持っていけるような感じで。で、密かな憧れをずっと持っていたバンドにつながるギターが、俺の部屋にずっとあるわけじゃないですか。まあ、「別に触っていいよ」って言われてたから触るようになったり、一緒に遊んだ時にギターを教えてもらったり。そんなこんなしているうちにバンドに入るという形だったんですよね。 ――増川さんとしては、そのエレキギターが音楽への入り口になった。 増川:そうですね。それまでって、曲がどんな風にできているかなんて、意識しないじゃないですか。でも最初に「四季の歌」とか、コードをジャランと弾くだけのことを教えてもらって。それでも立派な伴奏になるから「ギター、すげえな」と思った記憶があって。うん。たしか、その時に2人で曲を作ったこともあったんです。もちろんその時は俺はほとんど弾けないから、ギターを弾いて「こんな感じ」みたいな話をして。紙とペンで何かを書いて。遊びの延長でそういうことをするだけだったんですけれど。それが『Iris』のシークレットトラックの「朝焼け」という曲です。 ――藤原さんとはバンド以前からもいろいろなことを話したりしていたんですね。 増川:そうですね。当時、藤原くんと遊んでいた中に、よくわからない遊び方があって。「朝会い」っていうのがあって。朝に会うんです。学校があったり用事があったりする中、朝の4時に起きて家をこっそり抜け出して、まだ暗い街を歩いたりしていたんです。缶コーヒーを買って、開いてない駅の階段に座って過ごしていたり。そこでよく空想の話をしていたんです。怖い話をしたり、宇宙ってどうなってるんだろう?みたいなSFっぽい話をしたり。今の俺らは3次元だけど4次元の世界ってどうなんだろう、とか。そういうことを話すのが好きで。でもガキだし、「朝会い」に失敗することもあるんです。起きられなかったりして。で、ある日、家の窓を開けたら紙に書いたメモと冷たくなった缶コーヒーが置かれていて。「今日は待ってたけど帰るね」って書いてあったり。それで切なく思ったことも覚えてます。
グリーン・デイとレディオヘッドが僕にとっては大きかった
――高校に入ってからはどんな感じでしたか? 増川:その頃はバンドにもう加入していたので、毎週火曜と日曜にチャマの実家の居酒屋を使わせてもらって練習してました。高校受験の後の春休みからそれが始まっていて。ただ、やっぱり、いくら「バンドやろう」って言っても、曲もなければ飽きるじゃないですか。とにかく集まるのが楽しすぎて、余計なことばっかしてましたね。遊んじゃう時もいっぱいあったし。 ――思春期の男子ですからね。 増川:しょうもないですよね。ちゃんと「もっと練習しとけよ」って今は思うんだけど。でも、僕にとってはとにかく最初に藤原くんと会った時の「こんな面白いことを共有できる人間がいるんだ」っていうのがどんどん増えていった時代だったんです。チャマも升くんもそう。話していて、笑い転げない日はないぐらいの感じだったんで。いつもそんな感じでした。 ――当時の将来像はどういうものでした? 増川:あんまり考えてなかったかな。小学校の頃から成績は良かったんですよ。ぼやぼやしてるんですけど、ちゃんとやればテストの点数もとれちゃうタイプで、塾も行ってたし、宿題とかも素直にしていたので。勉強は嫌いじゃなかったですね。でも、いい高校に入ろう、いい大学に入ろうとかは全然考えてなかった。どうせ行くなら、近くて比較的同じ学力の人が集まる方がいいだろうなとは思ってました。それぐらいですかね。 ――音楽への興味はどう変わっていきました? 増川:高校に入った頃からは洋楽とかも聴き始めていて。ちゃんとギターのサウンドというものを意識するようになったと思います。やっぱり大きかったのは升くんが貸してくれたグリーン・デイの『Dookie』でした。最初に聴いた時はちょっと分からなかったんですけど、2回目で「これ、すごいね!」となって。それがちゃんと洋楽に引き込まれた瞬間だったと思います。それまで聴いてたものとは違ったんですよね。そこからグリーン・デイが一番かっこいいものになったんですよ。そこからいろんな音楽を聴くようにはなったんですけど、最初の衝撃はそこでしたね。 ――グリーン・デイからどんな風に広がっていきましたか? 増川:ボン・ジョヴィとかミスター・ビッグとかも、その前にちょっと流行ってたんです。でもグリーン・デイがそれを塗り替えちゃったんですね。そこからオアシスとかブラーとかパルプとか、UKのバンドを沢山聴いてました。そうこうしているうちにレディオヘッドと出会った。そこでも衝撃を受けました。中古のワゴンセールで『The Bends』のCDが売ってて。「え、なんだこれ? なんだこの深遠な世界は」という感じになってました。まだ『OK Computer』が出る前ですね。スマッシング・パンプキンズもチャマから借りて聴いてたし、すごい好きでした。ニルヴァーナにも打ちのめされていました。でもやっぱり、グリーン・デイとレディオヘッドが僕にとっては大きかったですね。 ――みなさんの中でCDを貸し借りしたりして、どんどん音楽に詳しくなっていった。 増川:そういう時代ですね。その中でやっぱりヒデちゃんはどんどんいろんな音楽を聴いてたイメージがあります。高校は僕と升くんが一緒だったんですけれど、周りの友人にも恵まれて、僕らに近い音楽の嗜好を持っている人もいたので。新たな環境でした。 ――チャマさんがグリーン・デイの初来日にみんなで行ったと言ってました。 増川:行きました。その時にハイスタが出てて。帰りに無料のCDを配ってたんですよね。それも聴いてすごいかっこよかったし、ハマってました。
その頃の僕らは謎の自信に満ちあふれていて。無敵だと思ってました
――1996年2月11日に「TEENS' MUSIC FESTIVAL」の予選で船橋の楽器店で初めて4人でステージに立ったわけですが、この時はどんな感触がありましたか。 増川:楽しかったです。とにかく、その頃の僕らは謎の自信に満ちあふれていて。無敵だと思ってました。下手くそなくせにそういう自信はあった。そのまま人前に出てきちゃった感じだったと思います。周りの人からはどんな風に見えてたんだろうな。音のバランスもめちゃめちゃだし、チューニングもまともにできてないし、俺とかチャマは動き回ったりしてたんで、シールドも絡まっちゃうような感じだったんですけど。 ――「TEENS' MUSIC FESTIVAL」は千葉大会、関東ブロック大会まで勝ち進みましたが、その手応えもあった。 増川:とにかく自分たちは無敵だという謎の自信だけはあったんで。意外だと思ってなかったです。「よしよし、次行くぞ」みたいな感じでした。怖いもの知らずでしたね。緊張もあったけど、幸せでしたね。東京青年館に行く道中すらも楽しかった。高揚感がありました。 ――その年の夏に軽井沢に合宿に行ったみたいな話も聞きました。 増川:みんな『スタンド・バイ・ミー』が大好きだったんで、そういう雰囲気を一生懸命に味わって帰ってくるみたいな感じでしたね。スタジオもあって、リハーサルもしていたけれど、いかんせん数曲しか持ち曲ないし、やり方もわからなかったので。すぐに遊びにいっちゃうんですよ。そういう記憶があります。
聴いたその歌がそのまま身体に染み込んできた。その感動にびっくりしたんです
――「ガラスのブルース」という曲が生まれた頃のことも聞かせてください。最初に聴かせたのが増川さんだったと藤原さんは言っていましたが、その時にはどんな記憶が残っていますか? 増川:この時には、フジくんは学校を辞めていて。家にいたんですよ。心配だし、地元の友だちでちょくちょく家に遊びにいってました。高校を辞めてしまったこと自体はしょうがないけれども、だからといって引きこもりになるのも良くないだろうと。僕もみんなも様子を見たいし、会いたかったから、よく家に行って。そのまま家で一緒に遊んだり、外に遊びに行ったりしていて。そんな中、「曲ができた」って言って、聴かせてくれたんですよね。それが本当に衝撃的で。最初はあんまり自信がなさそうな感じで聴かせてくれたんですけど、その時に100点満点で120点くらい褒めちぎった記憶があります。「すげえいいじゃん、これ!」って。グリーン・デイもレディオヘッドも好きだったけれど、それが僕の中では本当に大きな大きな衝撃だったんですよ。それまでの曲は英語の歌詞で。歌詞も辞書を弾きながらみんなで書いていった曲もあったんですけれど。それとは全く違って、聴いたその歌がそのまま身体に染み込んできた。その感動にびっくりしたんです。もちろんそれまでも邦楽はいっぱい聴いてきたはずなんですけど。一番身近な友達の口からそういう言葉が伝わってくるというか。フジくんは、最も自分と重なるところがあるというか、年も同じで地元でもよく遊ぶ友達で。そういう人の歌声が、どんな邦楽とも違ったんですよ。言葉に持ってかれたというか。「ガラスのブルース」という曲から得られる感動が大きかった。それにすごくびっくりして。「なんだろう、これは」と思って。「これは絶対にやろう」みたいなことは言ったと思います。 ――藤原さんは、曲を聴かせたいろんな人に「お前、こんなこと考えてたんだね」と言われたと言っていました。で、自分の夢を語るようになった、と。そういう感触はありました? 増川:そうですね。耳ざわりがかっこいいとか、表面的にやってることがかっこいいとかでは全くなく、心の奥のところに響いた感じがすごくありました。「こんなに綺麗な言葉があるんだ」みたいな。あまりうまく言語化できないですけど、ものすごくかっこつけたことを言わせてもらえれば、そこで先の方まで見えた感じがあったんです。この曲を聴かせてもらった瞬間に、「これを他の人も聴けばいいじゃん」というか。それをもっともっと大勢の人が聴けばいい、そうなれば楽しいじゃん、みたいなことを思ったんですね。漠然と今のステージにつながっているかのような道が見えた感じはあって。すごく大きな瞬間でしたね。それまでも無敵感はあったんだけれど、それともちょっと違うというか。みんな聴いたらいいって。そういう音楽の原点のところに立ち返ったというか。そういうことはすごく思いました。 ――ということは、次に出た大会の時も、きっと優勝するだろうとどこか確信していたところがあった。 増川:そうですね。何か間違わないかぎり絶対に行くだろうなと思ってました。審査員の方が「今の彼らにこの賞をこの曲であげるかどうか迷ったんです」みたいなことを言っていたんです。演奏も荒かったし、曲の良さに対して、演奏力は何もついていっていなかった。それを言われたことも覚えていますね。他に出てた人たちはみんな上手かったから。この大会に出た頃から「ガシャガシャやってるだけじゃダメなんだ」みたいに、演奏に対する意識も強くなってきました。 ――それ以降、音楽業界の人から声をかけられるようになっていくわけですよね。友達同士の関係だけでやっていたところに、事務所やレコード会社のような大人との接点が生まれてくる。そのあたりの感触はどうでしたか。 増川:「いよいよ来たか」みたいなのはありました。あとはやっぱり警戒心もありましたね。でも、とにかく他の手段を知らなかったので。自分たちでデモテープを作ったりはしていたけれど、その先の世界は知らなかったので。警戒半分、期待半分みたいな状態だったかな。あとやっぱ純粋に「東京の人ってオシャレだな」みたいな、そういう感覚はありました。 ――ショーケースライブに出されそうになったようなこともあったそうですが。 増川:その後にはライブハウスでやるようになって、そこに音楽業界の人たちが来るようになったんですよね。バンドにそうやって近づいてくる音楽業界の大人たちがいたんです。彼らは喫茶店でも「何でも食べていいよ」みたいに言ってくれて。僕らもガキだったし、ありがたく食べて。頼んでもないのにサポートを申し出てくれるメジャーレーベルの方もいたりして、期待をされていたんだとは思います。そういう時に「うちのやるライブがあるから出ない?」みたいな誘いもあったということだったんですよね。でも、それがレーベルのショーケースライブだったみたいなことを別の方からの説明で知って、その事を先方が事前にちゃんと説明してくれていなかったことに僕らが不信感を持ってしまって、その方たちとはそれっきりになって。それで信頼出来る方々とインディーズで一緒にやり始めた頃だと思います。
人生で一回しか味わえない、最高の青春だったと思います
――増川さんが高校を卒業した頃はバンドに対してどんな感じのことを思っていましたか? 増川:1998年の3月に卒業して、そこから1年浪人したんですけれど。浪人中もライブはガンガンやってました。「NO REASON」というカセットテープを出したことがあったんですけど、それを全然話したことのない高校の同級生が持っていてビックリした記憶があります。ずっとライブハウスには出てました。 ――浪人生の頃は将来に対してどんなことを思っていました? 増川:高校の同級生に受験しないヤツはいなかったし、升くんも推薦をとっていたので。大学受験をしないという選択肢はそもそも考えにくかったです。でも勉強はしたんですけれど、目論見が甘くて全然受からなくて。申し訳なかったけれど、それはそれとしてライブをやっていこうって感じはありました。バンドは絶対にやっていきたかったけれど、かと言って受験しないという選択肢も逆になかったというか。学生のまま行けるんじゃないかと思っていました。 ――その頃は、4人の境遇もバラバラですよね。バンドにかける思いには若干の濃淡みたいなのはありましたか? 増川:あったと思います。フジくんとチャマは早々に東京に出ていたし、バイトしながらバンドをしていたし。特にチャマは今の生活を抜け出したいというマインドもあったので。僕にもそれはあったけれど、その切実さは違っていたと思います。でも毎週火曜日にチャマの家に集まって練習するというのは継続していて。俺はそれをすごく楽しみにしてました。普段はだんだん会わなくなっているけれど、その日には集まることができたんで。俺は予備校に行きながらって感じでしたね。ライブがあったら行っていたし。他のメンバーからはバンドに全振りしていなかったように見えていたとは思います。実際、楽しいから絶対にバンドはやめたくなかったけれど、具体的にご飯を食べていくための手段としては見ていない感じだった。度胸がなかったというのはあると思います。漠然と「音楽で生きていけたらいいな」みたいなのはあったんですけど。でも、バイトや学校を辞めるほどの勇気は持ててなかった。 ――そこから増川さんの中で熱量が上がったのはどんなタイミングでしたか? 増川:やっぱり『FLAME VEIN』を作った頃だと思います。たしか2、3日で録ったんですけど、早朝までかけてレコーディングをしていて。その頃はライブハウスに出るたびにお客さんもどんどん増えていったんですよ。それもあってギアが勝手に上がっていったという。 ――バンドの知名度もどんどん上がっていた。 増川:そうですね。俺がなんとか大学に受かって、最初に大学に行った時のことで、すごく覚えていることがあって。東京の大学だし、知ってる人なんか一人もいないわけじゃないですか。でも、軽音部をちらっと覗いてみたんですよ。最初のイベントに参加したことがあったんです。そしたら俺らのことを知ってる人がちらほらいたんです。その辺からですね。なんというか、自分たちだけが楽しいと思ってやっていたことが、社会に漏れていったという。ライブハウスでも自分たちが呼んだ人以外の人に声をかけられるようになって。全く知らない人に自分たちのことが伝わるようになった時期でした。 ――大学に入ったことで何か変化はありましたか。 増川:受かってよかったです。メンバーに申し訳ない気持ちもあったし、親にもそうだし。大学に受かっているというのは、親に対しての最後の安心材料だったというか。それをクリアすれば親に納得してもらえるというか。そういうのはありました。 ――最後に聞かせてください。1996年2月11日にBUMP OF CHICKENが結成されました。その日に4人で初めてステージに立った。そして1999年3月に『FLAME VEIN』がリリースされています。この3年間って、どんな期間でしたか? 増川:たしかに3年だったんですね。今3年間って言われて「そっか、3年間なんだ」って思いました。なんだろう……青春そのものの年頃じゃないですか。僕にとっては、自慢の青春ですね。これ以上の青春を味わえてる人はなかなかいないんじゃないかなっていう。でも、青春ってそういうもんだと思うんだけど、渦中にいる当時の自分にとっては、先は全く見えてないわけで。だから不安ももちろんありました。若い頃って、漠然とした大きな不安があるじゃないですか。将来どうなるんだろうとか、親に申し訳ないなとか、お金ないな、とか。だから、今振り返ったらとても輝いていた、最高の青春だったって言えるんだけど、今パッとその時の渦中の気持ちになったらそれはイヤかもしれないわけですよね。いつも2、3日先のことで頭がいっぱいだろうし。今だからこれは言えるんでしょうね。今あの時代に戻っても同じことにはならないだろうし。人生で一回しか味わえない、最高の青春だったと思います。 取材・文 / 柴那典