「BUMP OF CHICKEN HISTORY #1」藤原基央インタビュー
2026.06.12
絵や漫画を描いたり、何時間も空想や妄想にふけったりする子供でした
――幼稚園時代のメンバーのみなさんとの出会いの記憶はどんなものがありますか? 藤原:臼井幼稚園で、僕は年少の「ひよこ組」から年長の「つばめ組」まで3年間チャマと一緒でした。なのでチャマとはたくさん遊びました。 ――チャマさんは幼稚園時代の藤原さんのことを兄貴分、リーダー格と言ってました。 藤原:それには理由があって。4月生まれだったことが全てなんですよね。それで先生から「わかんないことがあったらもっちゃんに聞きなさい」みたいにお兄ちゃん扱いされて、クラスのみんなも僕をお兄ちゃん扱いしてくれた。それだけのことだったんですよ。 ――チャマさんとは幼稚園時代から仲が良かったんですね。 藤原:はい。あいつ、めっちゃいいヤツで。僕の家は幼稚園から少し離れていて、少し遅めの到着だったんです。先に来た子がブロックとかで遊んでるんですけど、チャマが俺のぶんのブロックをとっておいてくれたんですよね。ピアノの鍵盤の上に敷く赤い布にくるんで「これ、とっておいたよ」って。いいヤツでしたね。 ――増川さんについてはどうでしょう? 藤原:ヒロとは年少の時だけ一緒でした。声がすごい高かったというのがヒロの印象ですね。子供なんだから声が高いのは当たり前じゃないですか。でもその子供が「この子、声高いな」って思うくらい声が高かった。後々中学で再会した時も声が高かったですね。 ――升さんは幼稚園の時点ではみなさんとほとんど接点がなかったと言ってました。 藤原:ヒデちゃんのことは知らなかったです。中学で出会った時が最初だと思ってたら「俺も臼井幼稚園だよ」って教えてくれて、後から知りました。卒園アルバムを見たら泣きそうな顔して写ってて。彼がいたのが「ひばり組」で、不良ばっかり所属してた悪名高いクラスだったんです。「ここにいたんだ。さぞ辛かったろうな」と思いましたね(笑)。その「ひばり組」がお遊戯会でやっていた演目のことは覚えていて。みんなで忍者に扮した劇をやっていた。で、後々中学で出会ったヒデちゃんにその話をしたら、ヒデちゃんはその劇の中で最後のオチみたいな「コウモリ忍者」の役をやってたんだよって教えてくれた。直接知らなくても共通の記憶があるっていうのは、僕には少し嬉しいことですね。 ――藤原さんの歌や音楽にまつわる一番古い記憶はどうでしょうか? 4歳か5歳くらいの時に「たんこぶの歌」という曲を作ったという話を以前に聞きましたが。 藤原:ありました。たしかにそれは幼稚園の頃ですね。歌や音楽を好きという認識はあんまりなかったんですけど、好きだったんでしょうね。姉2人の影響でピアノを習っていて。真面目にやってはいなかったんですけど、ただ、ピアノに触ること自体は結構好きでした。2番目の姉によく遊んでもらったんですけど、その遊びの中に「ハモる」というのがあって。その遊びも好きでした。 ――小学校の頃はどんな子供でしたか? 藤原:一貫しているのは、小さいことから大きなことまで、いろんなことをいちいち不思議に思っていました。「なんでこうなんだろう?」「どうしてこれはこうなっているんだろう?」と。腹が立ってるわけではなく、純粋な興味のほうです。一人の時間が大好きで、絵や漫画を描いたり、何時間も空想や妄想にふけったりする子供でしたね。
『ドラクエ』の「序曲」に、グングニルのように貫かれた
――小学校時代に好きだったもの、ハマっていたことは? 藤原:ゲームでは『ドラクエ』と『FF』ですね。小1のときに『ドラクエ』と出会った。これは大きかったです。今でも衝撃を覚えています。小学校に入って最初にできた友達が家で『ドラクエ』を見せてくれて。カセットを挿して電源を入れると「序曲」が流れる。それがまず刺さったのを覚えています。で、「ふっかつのじゅもん」を入れてゲームをスタートすると、ラダトーム城から冒険が再開する。そのラダトーム城のBGMも刺さった。「とてつもない何かが始まった」という感覚が僕の中にありました。今思うと、8ビットのあの音源じゃないとダメだったんだろうと思います。『ドラクエ』の「序曲」に、グングニルのように貫かれた。串刺しにされたんだろうと思います。 ――その原体験は、今の藤原さんとちゃんとつながっている感じがします。 藤原:本当にそうだと思います。で、漫画では『ドラえもん』、特に『大長編ドラえもん』が好きでした。体調を崩して学校を休んだときにいつも母が漫画を買ってくれるので、そのたびに買ってもらって繰り返し読んでいました。『火の鳥』は家にあって、これも繰り返し読んでいました。すごく面白くてワクワクして読んでいたんですけど、本当に深く刺さるのはもう少し後の話ですね。 ――アニメとの出会いはどんな感じでしたか? 藤原:『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』に心を奪われていました。それも大きかったですね。ああいう冒険活劇、奥行きのある世界に強烈に惹かれたんだと思います。主人公がしっかりと使命を帯びて、そのために命を燃やしているということにも強く興味を抱いた。『ラピュタ』を観て「俺のところにも空から女の子が降ってこないかな」みたいなことを思ったりしました(笑)。あとは『ドラゴンボール』。漫画もアニメもずっと見ていました。『ムーミン』、『悪魔くん』、『ゲゲゲの鬼太郎』、『聖闘士星矢』、『魔神英雄伝ワタル』、『魔動王グランゾート』、『絶対無敵ライジンオー』とかも観てました。あとは『アンパンマン』も好きでした。小4くらいのときに放送が始まったんですけど、歌がすごく好きで。しっかり観ていました。 ――いろんなものに夢中になっていた。 藤原:そうですね。ミニ四駆とかビックリマンとかSDガンダムも流行ってましたし、スケボーもやってました。でも、一通り夢中ではあったけれど、それはコミュニティの中の一人として、という感じでしたね。友達と遊ぶのも好きで、しょっちゅう遊んでたんですけれど、一人の時間をとても大事にしていました。友達と遊ぶ時と一人の時間とでは、明確に心の機能する場所が分かれていたと思います。夜はどれだけ眠くても、一人の時間をとらなければいけないくらいに思っていた。寝ないと親に怒られるので、寝たふりをして電気を消して布団をかぶって、その中で空想や妄想に励むんです。イヤホンで音楽も聴いていました。その時間をとても大切にしていました。 ――イヤホンで聴いていた音楽は? 藤原:『ドラクエ』と『FF』のサントラです。あとは、マイケル・ジャクソンが映画『E.T.』を語り聞かせてくれるレコードが家にあって、よく聴いていました。マイケル・ジャクソンを認識したのは『BAD』の頃だったと思います。マイケルは一番上の姉と母の影響ですね。2人がハマっていて。小学生の頃は一日中家でMTVが流れてました。リアルタイムの放送も、録画した深夜の番組もずっと流れていた。その環境は、後々に音楽をやっていく上でとても大きな影響になったと思います。
流行っているものも、そうじゃないものも、何でも歌ってました
――中学に入ってメンバーのみなさんと再会したと思うんですが、その実感はどうでした? 藤原:さっき言ったようにヒデちゃんとは初めましてだと思っていて。チャマとは100%再会でしたね。ヒロとは50%くらいでした。というのは、小学生の時にミニ四駆が流行っていて。市内のおもちゃ屋さんにコースが組んであって、そこに近隣の小学生が自分のミニ四駆を走らせに行ってたんです。小学3、4年生くらいの頃、僕がその店に行ったらヒロがいた。「あの声の高い増川くんだ」と覚えていたんで、勇気を出して「臼井幼稚園だよね?」って話しかけたら「うん」と。でも「俺のこと覚えてる?」って言ったら、外国人が「知らない」という時にやるような、両手のひらを上に向けて肩をすぼめるジェスチャーを30回くらい乱発された(笑)。「そっか、忘れてたのはしょうがないな」と思いつつ、そのことが強烈な記憶として残っていた。だから中1で同じクラスになったときも「あ、増川くんがいるな。小3の時におもちゃ屋で会ったけど、俺のこと覚えてなかったな。話しかけないでおこう」と思っていたら、向こうから「君のこと知ってるよ。臼井幼稚園で一緒だったよね」と話しかけてきた。そこで「どういうこと?」が一つと、あとはもう一つ「声たっか!」って思いました(笑)。 ――升さんの印象は? 藤原:升くんは当時、結構イヤなやつだったんですよ。すぐイヤなことを言うんです。でも憎めないところもあるんですけど。中1の時は違うクラスだったんですけれど、同じバスケ部だったんで、部活の仲間として認識していて。何人かで一緒に遊んだこともあるけど、特別すごく仲が良いわけではなかったです。で、中2の時にクラス替えがあって、小学校から仲の良かった友達が升くんと同じクラスですごく仲良くなったんです。で、その友達の家で僕の小学校の卒業文集を読ませてもらったらしくて。後日、その友達が僕のところに来て、「升がお前と友達になりたいって言ってる」と。じゃあ友達になろうと言って仲良くなりました。 ――小学校の卒業文集には何を書いていたんですか? 藤原:「『自分新聞』を書きましょう」みたいなページがあって。みんなは新聞みたいなレイアウトで「6年間の思い出トップ10」「仲の良い友達紹介」みたいなことを書いてたんです。でも、僕は普通にエッセイのようなものを書きました。家族や友達への気持ちについて、思ったことをつらつらと書き連ねていた記憶があります。 ――升さんはそれを見て「こいつとバンドやりたい」と思った、と言っていました。 藤原:そうなんですね。それは嬉しいです。よく歌っているから誘ってくれたんだと思ってました。 ――中学の頃は、歌うことが好きだという自覚も増えてましたか? 藤原:歌うことが好きだなという自覚は、小学校や幼稚園の時よりもありました。カラオケに行くようになったのもその頃だし、よく歌っていました。 ――チャマさんは「行ってないはずの自分たちの小学校の校歌まで歌っていた」と言ってました。何でも歌う感じだったんですか? 藤原:何でも歌っていました。テレビで流れているもの、流行っているものも、そうじゃないものも歌ってました。学校で教わった歌も、それはそれで「いいな」と思ったものは大切に歌っていました。合唱コンクールとかその練習って、ダルがるのが美徳という雰囲気があったりするじゃないですか。できるだけダラけて、低く、適当に歌って見せるという。僕はそういうムードとは一切関係なく、大切に歌っていました。彼らの小学校の校歌も、とてもいい曲だなと思って。それで覚えちゃって、歌ってました。
急に胸ぐらを掴まれて、石壁に押し当てられた
――中2の時に升さんに「バンドを組もう、俺と一緒に日本のロックを変えようぜ」と言われたそうですが、その時の第一印象は? 藤原:あいつは、それがどういうことかよくわかってなくても、とりあえずかっこいいことを言おうとしてたんだと思います。かっこつけようとしてたんだという。で、俺は「すげえ、こいつ、かっけぇ!」と思いました(笑)。たしか、その言葉を2回言われてるんですよ。最初はバンドを組もうと言われた時で、もう一つは高校受験の時。ヒロとヒデちゃんと同じ高校を受験しようと決めていたんですけど、あんまり勉強をやる気がなくて。別にそこじゃなくてもいいやと思ってたんですよ。それをぽろっとボヤいたのがヒデちゃんの耳に入って。 ――どんな風に言われたんですか? 藤原:中3の時、ヒロとヒデちゃんと一緒に帰っている時に、話しかけても全然取り合ってくれない日があって。2人は前を歩きながらこっちをチラチラ見てコソコソ話してたんですよ。それで坂道を登ってヒロと別れる分かれ道のところまで来たら、2人で「せーの」で合図して、急に胸ぐらを掴まれて、石壁に押し当てられたんです。それで「お前、同じ高校に行くのやめるって本当か?」と問い詰められた。きっとその時点で、2人の中にストーリーができていたんでしょうね。ヒデちゃんにしても、胸ぐらを掴んだりするのは過剰演出だったと思うんです。思えばヒデちゃんはそういうヤツで、俺もそれに飲まれちゃった。さっき言った「ダルがる風潮」みたいなのはもともと一切なかったんだけど、急にそれを半ば演じるように「勉強とか、別に俺そんなやる気ねえし」みたいなことを言って。そしたら「お前、俺と一緒にロックを変えるんじゃなかったのかよ」って言われた。「こいつ、かっけえ」と俺は思いました。 ――升さんに熱く焚きつけられた、と。 藤原:升くんはメーターを振り切るときがあるんですよ。あいつは初めて会った中1のイヤな升くんだった頃からずっと、根底の部分にピュアな情熱を宿したヤツだったんですよね。「1秒1秒を大切にしなきゃ」とか「大切なもの、やりたいことをどうにかしてやっていきたい」みたいな焦燥感に気付いていたヤツだったんですね。というのも、中2の時に学校行事でキャンプがあって。キャンプファイヤーの火を囲んで、1クラスずつ強制的に出し物をするんです。でも、うちのクラスは「ダルがる風潮」に毒されていたので、一切頑張らない。「かえるのうた」をダルそうに適当な感じで歌って終わるっていう。でも、ヒデちゃんとチャマのいた1組は、その風潮に毒されていなくて。彼らはしっかりと出し物をやってたんですよね。チェッチェッコリをかなりのテンションで踊ってたんです。しかも、5クラス全部終わった後に、1組のやつらが何人か出てきて、火の前でネタをやるんですよ。面白いものからつまらないものまで、次から次へと交代で何かのネタをやって、ウケたりしくじったりしている。要するに、キャンプファイヤーの夜をいいものにしようと頑張って盛り上げようとしてたんです。冷めてる3組の中にいた俺はそれをポカーンと見ていて。その入れ替わり立ち替わり出てくる何人かの中にヒデちゃんがいた。一生懸命やってるんだけど、あいつのやってることはキャッチーじゃないから本当に何も伝わってこない。全くキャッチーじゃないことをやってて。スベってたんですね。でもヒデちゃんとチャマは必死なヤツだって俺はわかってたし、彼らの友達と3人で一生懸命生きてたんですよ。僕は彼ら3人がすごい好きだったんで「頑張れ」と思って見ていて。で、ひとしきり彼らの弾も尽きて、「これで終わりかな」ってなったら、ヒデちゃんが1人でバーッと前に出てきて、肩でゼイゼイ息しながら「みんな、このままでいいのかよ! このままじゃダメだろ、もっと盛り上がろうぜ」って、学年全体の前でキャンプファイヤーの炎を背にして大声で言って。で、「ミュージック、スタート!」って言うんです。ミュージックなんかどこにもないんですよ。そこで、当時一世を風靡していたジュリアナ東京のユーロビートのような音楽を口で一生懸命再現して、さながらジュリアナ東京で踊っていた人たちのようにクネクネと踊ってたんです。升くんはそういう人なんです。振り切っちゃうんです。だからあの時も、僕の胸ぐらを掴んだんだと思います。
頭の中でビッグバンド調の「星に願いを」が鳴っていた
――藤原さんが最初に曲を書き始めたのは? 藤原:高1ですね。「デザートカントリー」という曲を書きました。ただ、中3のクリスマスコンサートの時に「星に願いを」をスウィングジャズ風にアレンジしたことがあって。そっちの方が自分の中では大切な作業だった気がします。それまではビートルズのコピーをやってたんですけれど、その時は単なるコピーではなく、スウィングジャズ風というかビッグバンド風というかそんな感じっぽくアレンジして、こういう曲のベースはこういう感じだよなと一生懸命考えていたという。 ――中学生の頃にハマっていたもの、好きだった音楽はどんなものがありましたか? 藤原:中学に入ると、小学校のときよりもコミュニケーションの中に流行りの音楽が入ってくるじゃないですか。だから流行りの曲はすごく聴いてました。ビーイング系とか、友達の好きなものを僕も聴くという感覚で、熱心に聴いてましたね。それとは別に一人の時間も継続してありました。大切にしていたのはずっと一人の時間だったと思います。あと、猫と暮らしてたんですけど、ああいう人間の言葉を喋らない家族の存在というものも、とても大きかったような気がします。思えば、物心ついた時から犬と暮らしていたし、猫と暮らしていたし。 ――一人の時はどんなものをよく聴いてましたか? 藤原:一人の世界で聴いているものはあまり変わらなかったですね。ゲームや映画のサントラをイヤホンで聴くという。あとは洋楽を聴いてました。MTVから洋楽を知って、マイケル・ジャクソンを中心に、ビリー・ジョエルなども聴いてました。生徒会長に教わって、ビートルズも聴くようになった。音楽はそういう感じです。あとBGMが好きだったんですよね。ゲームとかのサントラを聴くのが好きだった。それを聴いていた時は友達と話をするような音楽とは別の脳みそが作動していた感じです。そういう話を誰かとすることはなかったですね。 ――なるほど。そういう話と「星に願いを」をアレンジしようと思ったというのは、どこかつながる感じがありますね。 藤原:あの時のことはよく覚えてます。全然再現できないんだけど、頭の中でビッグバンド調の「星に願いを」が鳴っていたんですね。そのアレンジがかっこいいと思った。でも楽器を始めたばかりだし、何をどうしたらそうなるのかもわかってない状態だから、できっこないんです。コードもメジャーとマイナーとセブンスぐらいしかわからないわけで。それでもアレンジをするということをやったのは、大きなステップだったんじゃないかなと思います。ラジカセから流れてくる音楽を真似するのではなく、脳内に鳴っていたオリジナルな響きを、なんとか再現したいという取り組みだったので。曲そのものは有名曲ですけど、そこで当時の自分にとっての「ゼロイチ」のものが最初にあったと思います。
グリーン・デイからはパワーコードを、オアシスからはローコードを歪ませていいんだということを教わりました
――高校時代はどうでしょうか。みなさんとは別の高校に入ったということですが、そこでの出会いはどんな感じでしたか? 藤原:高校で知り合った友達は、めちゃくちゃいいヤツらでしたね。電車で1時間かからないくらいの場所だったんですけれど、その高校に集まる人たちはより多様で、急に世界が広がった感じがしました。中でも、今こそ付き合いはないけれど、最初に友達になってくれた彼らは本当に優しかった。 ――高校でもバンドをやっていたという話も聞きましたが。 藤原:一学年上の先輩たちに音楽好きが多くて、しかも洋楽の、少し古めのハードロックが好きな人がすごく多かったんです。当時の洋楽シーンは、オルタナがハードロックを駆逐した後くらいの頃で。だから、若者だった僕にはハードロックは10年くらい前の懐かしいものという認識でした。とはいえ自分もめちゃくちゃ好きだったし、小学生や中学生の頃にあまり人と共有しないできた部分を共有してくれる先輩に初めて会った。いろんなバンドを教えてくれて、高1の頃はハードロックばっかり聴いてました。メタリカ、ガンズ・アンド・ローゼズ、ジューダス・プリーストも先輩とのバンドでやったし。オフスプリングとかペニーワイズとか、パンクもやりました。それも楽しかったです。でも高2でグリーン・デイに出会った。そっちにハートを掴まれました。 ――グリーン・デイの存在は大きかった? 藤原:入り口として、グリーン・デイはデカかったです。グリーン・デイとオアシスが大きかったですね。グリーン・デイからどんどん音楽を掘っていったし、オアシスからも掘っていった。マンチェスターのバンドや、ブリットポップ全盛期のバンドを聴くようになって。イギリスとアメリカの両方を掘っていった感じです。 ――オアシスはどういうところが大きかったですか? 藤原:オアシスは、しっかり歪ませたローコードがアンサンブルの中心にある印象が大きいですね。オアシスの何にグッときていたかというと、たぶんリアム・ギャラガーの声だと思います。おそらく彼の声、その空気感に胸を掴まれていた。いろんなブリットポップのバンドをいっぱい聴いたけど、その中でもオアシスは唯一無二の空気感があった。それに心を掴まれていたんじゃないかと思います。 ――グリーン・デイにグッときたポイントは? 藤原:グリーン・デイは、それまで聴いてきたどの音楽よりもタイトでした。タイトでソリッドで、そして、一番わかりやすくパンクという概念をぶつけてくるものだった。言葉じゃないところでそれが全部わかるという感じがあった。パワーコードを教わったのもグリーン・デイです。グリーン・デイからはパワーコードを、オアシスからはローコードを歪ませていいんだということを教わりました。ニルヴァーナとか、当時の音楽シーンの象徴は他にもたくさんいたと思うけれど、BUMP OF CHICKENの中ではグリーン・デイとオアシスが一番話題に上がってました。やっぱりコピーしてたのが大きかったんじゃないかな。オリジナル曲をやるようになったあとも、セットリストに組み込んでライブをしてたので。 ――具体的にどの曲をコピーしていましたか? 藤原:グリーン・デイは「She」、「Pulling Teeth」、「Burnout」、「Welcome to Paradise」あたりをやってました。オアシスは「Live Forever」、あと「Some Might Say」もやったかな。ライブでやることはなかったけど「Rock ’n’ Roll Star」もひとしきり弾いてみたと思います。オアシスはコード進行が好きでしたね。GのキーにおけるAmの使い方がかっこいいなと思って聴いていました。あと、グリーン・デイからは精神もすごく鍛えられた気がします。楽器を持って人前に立てるやつらはかくあるべきだ、そしてこういうことを歌うんだ、みたいな。ビリー・ジョーたちからそういうことを教えられたというか。
ハーレーに乗って砂漠を旅したいわけではなく、そういう映像の背景に流れるようなコード感が僕は好きだった
――ザック・ワイルドに影響を受けたという話も聞いたことがありますが。 藤原:ザック・ワイルドも好きでした。ザック・ワイルドの何が好きだったかというと、あの人がソロのプライド・アンド・グローリーというバンドでやっていたことがものすごく好きだったんです。 ――ザック・ワイルドはもともとオジー・オズボーンのギタリストで、ハードロックのイメージも強かったですよね。 藤原:そうですね。でも彼にはサザン・ロックのルーツがあった。ずっと昔から思ってたことなんですけれど、ハードロックの人が時々匂わせる「このニュアンス」が僕は好きだというのが明確にあって。そのニュアンス自体にも細分化するといろんな面があるんですけど、そのうちの一つを色濃く持っていたのがザック・ワイルドという人で、それを色濃く出していたのがプライド・アンド・グローリーだった。「これはサザン・ロックっていうんだな」と知って、そこからプライド・アンド・グローリーは死ぬほど聴きました。それで、高校1年生の時に「デザートカントリー」という曲を書いたんです。 ――「デザートカントリー」はどういう曲でしたか? 藤原:「デザカン」は、ハーレーに乗って砂漠を旅してみたい、みたいな曲ですね。「砂漠の国」ですから。ハーレーどころか50ccのバイクにすら乗ったことがないし、砂漠の国はもちろん、東京にすら片手の指で数えるくらいしか行ったことがないようなヤツがそういう曲を書いてみるわけです。でもわりとすぐに気付くんですよ。別にハーレーに乗って砂漠を旅したいわけではなく、そういう映像の背景に流れるようなコード感が僕は好きなんだって。つまり、いわゆるサザン・ロックにあるようなコード進行や和音、そのサウンドアプローチやテイストが好きなんだと、わりと早めに気付きました。 ――「デザートカントリー」を作ったきっかけは? 藤原:高1の夏に「バンドコンテストに出よう」ということになって。音楽雑誌にいろんな大会の募集が載っていたんで、出られそうなものに片っ端から応募したんです。応募するにはオリジナル曲がなきゃダメだということで、急いで作ったのが「デザカン」でした。歌いたいことも別にないし、雰囲気だけで作った音楽でした。もちろんそれなりに誇りを持って胸を張ってやっていましたけれど、何かを込めて作ったものではなかった。だから自分の中ではあまり「作った」という中にカウントしていないんです。
夜中の公園で、家出した友達の横で作ったのが「DANNY」です
――1996年2月11日に今の4人で初めてステージに立ったわけですが、そこでは「DANNY」を演奏していますよね。「DANNY」はどうやって生まれましたか? 藤原:友達が家出したことがあったんです。夏の終わりぐらいだったかな。「近くの公園のベンチで寝るから、お前、毛布持ってこい。あとギター持ってこい」と言われて、夜中の公園に行ったんですね。そこで、そいつの親に対する愚痴を聞いていた。そしたら、話を聞いているうちにちょっと飽きちゃったんですよね。ギターを持っていったんで、そいつの話を聞きながら隣でギターを弾いていて。そのうちに、ギターで曲を作り始めたら、そのほうが楽しくなって夢中になっちゃった。そうやって、夜中の公園で、家出した友達の横で作ったのが「DANNY」です。「デザートカントリー」は借りてきた世界観をなんとなくの気持ちでやっただけなんですけど、「DANNY」は自分の中に昔からある何かを出した感があった。それが自分の根底にあるパンクだったのかな。歌詞はクソ適当だったけれど、あれはハートから鳴ったものだったと思います。あの曲を書いたのはグリーン・デイとはまだ出会っていない頃ですね。その少し後に升くんがグリーン・デイをBUMP OF CHICKENに持ってきて。グリーン・デイを知って、コピーしていくうちに「あ、『DANNY』もパンクだったんだな」と知りました。 ――「TEENS' MUSIC FESTIVAL」に出場して「DANNY」をやった時の手応えはどうでした? 藤原:まず最初が地区大会予選で、これが1996年2月11日。そこを勝ち進んで、その後千葉県予選も勝って、その次が日本青年館での関東ブロック大会。ここで負けました。もう一回勝てば全国大会だったんですけど。でも「いけたな!」って感じで。飛び跳ねて喜んでいたと思います。 ――「DANNY」の後の曲作りはどうでしたか? 藤原:やってましたよ。英詞の曲がいろいろありました。その頃は曲だけは量産できたんです。歌詞はどうでもよかった。本当にクソどうでもよくて。いい感じの曲をまず作るわけです。ハートが求める「こういう音楽を鳴らしたい」というものができたら、あとはそれが何を歌っているかはどうでもよかったんです。 ――「TEENS' MUSIC FESTIVAL」の後に当時の大人に「なんで英語で歌ってるんだ」みたいなことを言われたという話も聞きました。 藤原:そうです。僕らは関東ブロック大会で負けて全国大会には行けなかったんですが、その時に観に来ていたメジャーレーベルの方が後日連絡をくれて。「君たち面白いから、ちょっと話を聞かせて」みたいな感じで呼んでくれたんです。「他にもデモテープがあれば持ってきて」と言われたんで、持っていった当時の曲を全部聴いてもらったんですけれど、なんだかつまらなそうで。「なんで日本語でやらないの?」と言われました。ただ、その当時は日本語でやらないことにも特に理由はなかったから、その時に咄嗟に思った「世界に通用したいからです」みたいなことを適当に言ったんです。本当にそう思っていたわけじゃないんですよ。でも4人とも「よっしゃ、言ってやった」みたいに思ってて。当時は相手を言い負かせたか、なめられない答え方ができたかどうかのほうが大事だったんでしょうね。でも「世界で通用する前に日本で通用しなきゃダメじゃない? まずは日本語で曲を書いてみてよ」と言われて。おっしゃる通りだな、となりましたね。
4人で音を出している時は楽しかった。そこだけが心の支えだった
――その頃の藤原さんの将来像はどうでしたか? 藤原:その頃にはもう高校を辞めていました。大ピンチだったと思います。将来も何も描いていなかった。みんなもすごく心配してくれたし、メンバーも毎日交代で誰かが家に来てくれた。「バイト見つけた?」とか「バイト面白い?」とか声をかけてくれて。僕は前向きな思いを持って高校を辞めた人間ではなかったので。自分が見つからないまま、どうすることもできないまま、本当はそうあるべきだった生き方を破綻させてしまっただけなので。自分のことなんか一個も愛せなかったし、胸を張れる時間なんて1秒もなかったんです。とはいえ、4人で音を出している時は楽しかった。そこだけが心の支えだったと思います。 ――「ガラスのブルース」を書いたのはその頃ですか? 藤原:そうです。高校を辞めた後です。高校は、高1の2学期が終わる前に辞めました。文化祭には行ったんです。先輩のバンドでギターを弾いて、まもなくして辞めた。親にどう謝ればいいかわからなかった。どうしようもない半端者でした。どうしようもない状態で、無力で。バンドの仲間も、地元の仲のいい友達も、高校を辞めた僕をみんな心配してました。もちろん心配されてたことは肌で感じていたんですけれど、その何倍も心配してくれていた。みんな本当にいいヤツだなと思います。でも、将来に対しては何も考えることができないし、未来に対して透明度が全くない、何にも見えない状態でした。それについて考えることもできない、思考停止状態でした。親はそんな僕を、それでも家に置いてくれていて。でも、ただ息をしているだけでいることは許されなかった。「家賃を納めなさい」というルールを僕に与えてくれた。僕はそれにはすごく感謝しています。それで、家に置いておいてもらうためにバイトをするようになったんです。 ――バイトをすることで何か変わりましたか? 藤原:バイトで得たお金をお母さんに家賃として渡すときには、生活費を稼いでいる感じはガキなりにちょっとありました。バイトをすごく頑張る中で、それなりにいろいろな出会いもあって。何人かと仲良くなったりもしました。で、バイトをしながら、他の時間に一生懸命ギターを弾いて、コツコツと何かを作っていく。それがだんだん曲になっていくわけです。そんな生活には、全然生きている心地がしない部分と、めちゃくちゃ生きている感覚と、その両方があった。不思議な感覚がありました。その生活の中で、バイトしながらギターを弾いて、ちょっとずつ作り上げていったのが「ガラスのブルース」でした。 ――ちょっとずつというのは、何日もかけてという感じだったんでしょうか? 藤原:そうですね。1行も進まない日もありました。でも、別に締め切りがあるわけでもないし、誰かに書けと急かされているものでもないから、焦ることもなく、早く仕上げなきゃということもなく、ただ、何か不思議なところを確かめるかのように、日々コツコツとやっている感じでした。 ――楽しい、というのも少し違う感覚だった? 藤原:楽しさはあったはずだけど、それとはまたちょっと違うものだったと思います。ただ、毎週火曜日は必ずバンドの練習があって、それは本当に楽しかったです。メンバーに会って彼らの話を聞く、あるいは自分の話を聞いてもらう。そして一緒に音を出す。僕にとって、とても大切な時間でした。
「人に何かを伝える」というのはこういうことなんだと分かった。「ガラスのブルース」はそういう体験を僕にさせてくれた最初の曲です
――曲ができた時には、どんな風に感じましたか? 藤原:「あ、できた」と思いました。初めて日本語でちゃんと言葉を書いた。歌詞を書いた。歌詞なんて、それまで一番どうでもいいと思っていた部分なんです。でも、ちゃんと日本語で、自分の中から出てきた言葉を、歌詞として形にすることができた。何かが完成したという感覚、謎の何かを掴んだ感覚がありました。不思議な空気感の中にいましたね。でも、なんだろう、今もうまく言語化できないです。ここは本当に言語化するのが難しいです。で、その日の放課後に、いつもみたいに増川くんが来てくれて。ヒロに「一曲できたんだけど聴いてもらえる?」って言ったら「おお、聴かせて」みたいな感じで。出来上がったばかりの歌詞がノートに書いてあって、俺の前にあいつがあぐらをかいて座って、二人で同じノートを見ながら、弾き語りで僕が歌った。それが「ガラスのブルース」を人に披露した最初のタイミングでした。あの曲の最初のリスナーは増川くんだったんです。で、あいつも「なんかよくわかんないけど、すごいよ」みたいな感じで、ひとつも言葉にならないまま、一生懸命感想を伝えてくれた。俺も同じ感覚だったのを覚えています。で、バンドでやるようになって。心配して遊びに来てくれたり、気にかけてくれていた地元の仲のいいヤツらにも聴かせました。そいつらは俺たちのバンドの曲をすごく楽しみに聴いてくれてたんですけれど、それまで「いい感じだね」とか「かっけえな」みたいな感想だったのが、「ガラスのブルース」を聴いてもらった時は、それが全然違っていて。 ――どんな感じだったんですか? 藤原:曲を聴かせた後に、「はぁ……」って溜め息をついて、「もう一回聴かせて」って言われて。で、もう一回聴いたその後に「お前、こんなことを考えてたんだね」って言われるんです。みんな決まってそう言うんですよ。で、必ずその後に「実は俺にはこういう夢があって……」みたいな、今まで聞いたことのなかったデリケートな部分を打ち明けてくれる時間が始まるんです。その何人目かで、これが「伝わる」ということなんだと僕は分かった。「人に何かを伝える」というのはこういうことなんだと分かった。「ガラスのブルース」はそういう体験を僕にさせてくれた最初の曲です。 ――今まで作ってた英詞の曲とは、形は一緒でも中身が全然違っていた。 藤原:はい。全然変わりました。自分が音楽を鳴らすこと、歌うことの意味が全然変わった。ずっと何かが足りないと思っていたけど、そう思っていることに自分で気付いていなかった。その「足りない」という感覚が俺にあったことに気付いたんです。それが何かと言うと、おそらく、そういう伝えたい何かを載せたメロディーにしか僕は感動していなかったんだと思うんです。たぶん、僕にグリーン・デイが刺さったのも、きっと、彼らが伝えようとしていることが伝わってしまったからだと思います。いろんなかっこいい要素、音楽的に好きな要素もたくさんあったけど、一番はそれらが渾然一体となって一つの弾丸になって、ちゃんと俺に刺さったから感動したんだな、と。それを伝えようとして、それが俺に対して伝わったんだな、と。じゃあ自分にとってそれが何なのかって言ったら、きっとこれなんだ、ということですね。 ――言ってしまえば、それが「歌」である、ということですよね。 藤原:そうですね。全く違うものだった。自分がやっていたことはどこか足りないものだった。「あ、俺、そう感じてたわ」とわかった。ようやく空いてた部分が埋まった、みたいな感じがありました。うまく言葉で言えないですけど。でも、言葉で言えないっていうのはすごく大事なことで。要するに、その時の自分の中に起きた出来事とか、心の動きのことを、確信を持って僕は表現できていないんです。なので、こうやって喋っていても「これで合ってるのかな」とか「これを伝えるにはこれで合ってるのかな」といつも思っています。言葉にできないっていうのはそういうことなんです。 ――「ガラスのブルース」という曲を書いたことで、どんな扉が開いた感じがありましたか? 自分にとってどういうきっかけになったというか。 藤原:あんまり音楽的なことじゃなかった気がします。「こういう風に伝えればいいんだ」とか「こういう風にしか伝えることができないんだ」とか「じゃあそれを続けていけばいいんだ」とか「もうこれを続けていくしかないのかもしれない」とか、そういうことだったのかもしれないです。手段の獲得だったような気がします。楽曲なんて、適当にコードを並べて適当なことを歌えば、別に作れるんですよ。それで一曲できたと言えば、それはそれでできている。でも、そういうことじゃ全然ないんです。そんなものを作ろうとも思わないし、やりたいとも思わないし、続けようとも思わなかったので。
頭の中の響きを再現する方法をなんとか発見して、新しく発明していくことが本当に楽しかった
――結成20周年記念ライブのアンコールでやった「BUMP OF CHICKENのテーマ」はその後にできた曲ですか? 藤原:「BUMP OF CHICKENのテーマ」は「ガラスのブルース」を書いたすぐ後に書きました。Aメロのコードがずっと変わらない曲をやってみたいと思って書いたんです。AメロのコードをEのまんまずっと引っ張って、Bメロでようやくコードが動く。歌詞はみんなで車座になって書いていったと思います。みんなでジャムりながら、歌詞もみんなで書いた。「BUMP OF CHICKENのテーマ」は、「ガラスのブルース」みたいな生まれ方をしたわけではないんです。あれはもっとお遊びでした。ふざけるのが楽しい、という感じでできた曲です。できるだけふざけたい、という。ただ、その中でもしっかりポップでキャッチーなものを作っていたと思うし、超えたいハードルみたいなものをしっかり想定して、しっかり超えた曲だったと思います。 ――で、その後にどんどん曲ができていった。そのあたりはどうでしょうか。 藤原:「アルエ」がその次で、「くだらない唄」が同じくらいの時期だった感じです。どんどん書いていった、というわけでもなく、数か月に1曲くらいずつできていきました。 ――『FLAME VEIN』に入っている曲の中で、「ガラスのブルース」は最初の扉が開いたとても大事な曲だと思いますが、その次に達成の実感が強かったものはどういうものですか? 藤原:毎回、ひとつひとつやったことのないことをやっているんです。そういう取り組みが楽しくてしょうがなかったんですね。「ガラスのブルース」のイントロは分数コードを使っていて。でも、分数コードというものを言葉でちゃんと解説できない状態で、感覚でやっていました。「アルエ」では「この感じを使ってみよう」、「この雰囲気のコードを使ってみよう」とその分数コードをBメロで使いました。そういう新しいコードは全部自分で発見したものです。最初は中学生の時に『1週間でマスターできるフォークギターの弾き方』みたいな教則本を買って、1ページ目から最後のページまで真面目にやりました。メジャーとマイナーのローコードは全部わかっていた。でも、頭の中にはそれでは補えない響きがあって、その押さえ方は知らないんです。だから全部自分で発見するしかなかった。そうやって頭の中の響きを再現する方法をなんとか発見して、新しく発明していくことが本当に楽しかった。それを作曲やアレンジの中で次々と活用していくのがめちゃくちゃ楽しい時期でした。 ――コード感や和音の発見、音楽的な挑戦がそれぞれの曲にあった、と。 藤原:「リトルブレイバー」を書いた時は、これは曲が出来た後にわかった事ですが、僕の中にあったサザン・ロックの表現でした。あの曲のAメロでは、Dの後にCが来て、その後にGが来るんです。このコード感で、僕がサザン・ロックの中で好きだったエッセンスの一つを表現することができたという。でも、別にサザン・ロックをやりたいわけじゃなかったんで、全くサザン・ロックじゃない曲になりましたけど。とはいえ匂いはありますね。頑張ってそれっぽいギターを弾こうとしてるし。 ――その時期には、自分たちの音楽性も定まっていった感触もありましたか? 藤原:音楽性が定まったという認識は全くなかったです。ただただ、やりたいことに没頭していました。でも、それが「オリジナルを作れるようになっていった」ということなんでしょうね。それまではコピーだったり、その延長にあるような曲しか作れなかったけれど、ちゃんと自分の中にあるものを表現する方法を身につけていった。僕はコード進行にドラマを感じる人間で、幼い頃からの音楽の聴き方がそうだったんですけど、「リトルブレイバー」は初期の曲の中でも、最初にそのドラマみたいなものをしっかりと表現できた曲じゃないかな。サウンド面はやりたいことばかりあって空回りしてましたけれど。
初めて書いたリフの曲が「ナイフ」です
――その時期はとても濃密な期間だったのではないかと思います。 藤原:そうですね。その頃の僕は相変わらず金もなくて、バイトしなきゃいけなかったので。さすがに実家を出ていたんで、東京で一人暮らしだった。親に払うためのお金ではなく、東京で借りてる家の大家さんに払うお金を稼がなきゃいけなかった。それが払えなかったら出ていくしかないじゃないですか。そういう濃密さもありましたね。必死に金を稼いで、曲を書いていた。その中でいろんなことをやっていった。「ガラスのブルース」は基本はパワーコードで作っているんです。でも「リトルブレイバー」はアルペジオから始まるし、そのアルペジオを基調に表現したいコードの枠ももっと広がった。ギターのニュアンスも、歪んだエレキギターだけじゃなく、クリーントーンもアコギも使うようになった。音楽性ということで言うと、やりたいことが持っている手札を超えるようになっていった。今聴くと、悔しく感じるところはありますね。 ――というと? 藤原:「リトルブレイバー」を最初にレコーディングした時から1年ぐらい後に「とっておきの唄」を録ってるんですけど、そのタイミングで「リトルブレイバー」を録っていたら、もうちょっと悔しさや後悔はなかったんじゃないかな。こう鳴らせばこう聴こえる、こういう響きになるというのがわかっていく時期だったので。今にしてみれば大したことではないんですけど、パワーコードしか知らなかった当時の僕たちにとってはすごく大きなことで。アルペジオにしても、アコースティックギターを弾くようになった中学生の頃から好きだったんですけど、それをバンドアンサンブルにどう組み込むかがよく分かってなかった。「こういうふうにすればちゃんと立つんだな」ということがわかっていった。アンサンブルの作り方や、弾きたいフレーズに適した音の選び方にしても、トライアンドエラーの中で自分たちなりの答えがいくつか用意でき始めたんですよね。全然微々たるもんですけど、大きな差だったんです。 ――なるほど。バンドの表現力が少しずつ増していった時期だった、と。 藤原:「リトルブレイバー」を作った時は、表現したい音楽の幅が手札を凌駕し始めた頃で。それでも、4人で鳴らした時の音の感じには、「よし!」っていう、小さいけどめちゃくちゃ強いガッツポーズが心の中にはありました。「これをみんなに届けたい」という、切実な渇望、渇きみたいなものがありました。「ノーヒットノーラン」は追っかけコーラスがうまくいったな、こういうのも楽しいなというのがありました。「とっておきの唄」はそういうのが奇跡的にいろいろうまくいった曲ですね。でも、今思えば「やりたかったんだけどできてないね」みたいなところもあります。 ――他の曲もそういう感じでしたか? 藤原:「くだらない唄」を書いた時のことも覚えてますね。オクターブ奏法って格好いいなと思っていて。スマッシング・パンプキンズとかオルタナのバンドからそれを知ったんです。毎週火曜日がチャマの家での練習の日だったんですけれど、僕はその時、初台の姉の家に住んでいて。初台から臼井駅まで1時間弱くらいかけて行く電車の中で作ったんです。「くだらない唄」はオルタナとブリットポップのハイブリッドという感じもありますね。ローコードで歪んでいて、GのキーでAmが使われているというのは、おそらくブリティッシュロックから学んだことなんですよね。それでもやっぱり、特筆すべき曲と言えば「ナイフ」ですね。「ガラスのブルース」と「リトルブレイバー」と「ナイフ」です。 ――「ナイフ」はどういうところがポイントでしたか? 藤原:リフを初めて書きました。当時声をかけてくださって、色々と手伝ってくださっていた音楽関係者の人たちが居たんですけど、その人たちに「リフの曲、ないの?」と言われて。「藤原、リフ書かないの?」って。ギターを弾くのは大好きだったんですけれど、それまで自分でそういうものを作ってみようと思ったことがなかったんです。「なるほど、じゃあリフの曲書いてみよう」と思って。で、初めて書いたリフの曲が「ナイフ」です。 ――曲を作るごとに新しい音楽の文法を得ていったんですね。 藤原:はい。そこに興味があった。それが30年後の今日に至るまでずっと続いてる感じです。こうやって説明しなきゃ分かってもらえないし、説明したところでも分かってもらえないことがほとんどなんですが、あるんですよ。でも、ここまで具体的に話したのは初めてかもしれないですね。
その3年間の中で、僕はバンドマンになり、ミュージシャンになったんだと思います
――1996年2月11日がバンドの結成日で、1999年3月に『FLAME VEIN』が出ています。この3年間は、藤原さんにとってどんな期間だったと思いますか? 藤原:今考えてみれば、その3年間の中で、僕はバンドマンになり、ミュージシャンになったんだと思います。それからずっと、それが生業になっている。そういう3年だったと思います。基本、それが今も続いている。一つひとつのことについて、本当に納得するまでとことん確かめるようなことをしていたみたいに思うんです。音楽的な意味でも、もっと概念的な意味でも。「なんで自分はこれを大切に思うんだろう?」とか「なんで今ここにこういうギターの音を入れたいんだろう?」とか。それは今もやっていることなので。 ――つまり、今の自分になった3年だった。 藤原:そうかもしれないですね。でも、その前も基本的にはそういう生き方をしてきたと思うんで。で、それがバンドになった。つまり、獲得したんだと思います。そこを入り口に世界と繋がる方法論を確立したんだと思います。そこを入り口にすると、しっかりと納得できる答えに辿り着ける。そのことを知ったんじゃないかと思います。 取材・文 / 柴那典