「BUMP OF CHICKEN HISTORY #1」升秀夫インタビュー

2026.06.12

逆張り的なことをして注目を集める子供だった

――まずは、升さんとメンバーみなさんとの出会いを聞かせてください。 升:幼稚園が一緒の幼馴染みっていうのは、言葉通りで嘘はついてないんだけど、別に4人で仲良く遊んでたかっていうと、そんなこともなくて。自分は年中から入ったんですけど、たぶんフジくんとはあんまり関わり合いはなかったと思います。喋ったこともなかったかもしれないです。チャマとは小学校が一緒だったんで、そこから仲良くなった感じで。ヒロに関しては、家も同じ方向だったから、バスとかで一緒になったのかもしれないぐらいの感じです。 ――ということは、後々になって卒園アルバムを見て「一緒だったんだ」と気付くみたいな? 升:そういう感じですね。フジくんとは小学校も違ってたし、中学校で初めて知り合ったくらいの感じでした。 ――升さん自身の最初の記憶はどんな感じですか? 升:運動ができない子供でしたね。クラスで足の速い子たちがいっぱいいたんだけど、全然レベルが違ったのは覚えてます。あと、幼稚園でフジくんたちがやった劇を観てた記憶もありますね。宇宙船が出てくるやつだった気がします。 ――小学校時代はどうでしたか? 升:小5、小6あたりでチャマとようやく絡みが出てくる感じですね。集会委員会という、季節ごとの行事の司会をする委員会をやっていて。自分たちの代になって、クラスの爆笑王みたいなやつらが集まってきて、自主的に劇とかをやり始めたんです。それが結構ヒネった内容で。今考えたら全然面白くないと思うんですけど(笑)、それでも低学年にバカ受けしたりしてた。チャマと俺は考えるというよりプレイヤー寄りの感じで。原点っていうと大袈裟なんですけど、そういう逆張り的なことをして注目を集める子供だった。そういうことが自分に合ってる感じはありましたね。 ――小学校低学年くらいからクラスの中の面白枠みたいな感じだったんですか。 升:いや、全然そんなことなくて。それに気付いた高学年あたりに路線を自主的に変えていった感じです。でもまあ、1軍で目立つっていうよりは、3軍の中で一番目立つのを目指すみたいな志向ですね。 ――そういう意味でも、チャマさんと一緒だった集会委員会がひとつのルーツだった。 升:そうですね。逆張りしたいというか、人と違うことをやって注目を集めたいみたいなのがあるんです。こんなことをして笑わせちゃうぜみたいな。正規ルートじゃないところに喜びを感じるような、そういう小学生でしたね。 ――子供の頃にハマってたものってどんなものですか? 音楽だけじゃなく、アニメ、漫画、ゲーム、スポーツ、なんでもいいんですけれど。 升:その辺が全然ないんですよね。家にファミコンもなかったし。特別教育が厳しい親ではなかったんですけど、アニメも観てなかったし。親が自分の好きな番組を観てるから観れないみたいな感じでした。上に姉もいたし、発言力は家族で最下位だったので、特に主張することもなくて。当時の流行りみたいなのは結構抜けてたりします。でも『少年ジャンプ』は読んでたし、ミニ四駆もやってたし、あの時代の男子小学生が通るものは普通に通ってるけど、特筆して何かにハマったりはしなかったです。 ――増川さんとは小学生時代はどんな関係でしたか? 升:地区は近かったんで、小学校の時に2人で遊ぶようなことはなかったけど、大きい集まりの中で一緒にいるのは結構あったと思いますね。ヒロと遊んでるグループは違ってたんですけれど、空き地に自分たちが勝手に作った秘密基地をシェアしてたんですよ。タイミングは合わないんだけど、秘密基地に行ったら読んだことない『ジャンプ』が置いてある、みたいな。直接交流があるっていうよりは、そういうところで「なんかいるな」みたいな感じ。

バスケ部の二軍、三軍ですらないので、体育館にも入れなかった

――中学での藤原さんとの出会いはどんな感じだったんでしょうか? 升:中2の時の友達が、フジくんと同じ小学校で。フジくんが書いた卒業文集がすごく面白かったんです。みんなが「先生ありがとう」みたいなのを書いてる中で、全然違うことを書いていて。「すげえやつがいるぞ」みたいな感じで、その共通の友達を含めて一緒に遊ぶようになって。フジくんとは同じバスケ部だったんですけど、ものすごい人数がいたんで、同じ部活だからって全員と接点があるかっていうと、そういう感じでもなくて。 ――バスケ部に入ったのは何故だったんですか? 升:やっぱ『SLAM DUNK』が流行ってた真っ只中ですからね。入った時はもっとできると思ってたんですけど、全然できなかった。ボールも全然触らせてくれないし。レギュラーとは全然違いますね。ベンチ入りすらしてない。映画の『THE FIRST SLAM DUNK』で言うと、客席にいるモブキャラくらいな感じ(笑)。そのあたりでメンバーのみんなと仲良くなってきたんです。バスケ部の二軍、三軍ですらないので、体育館にも入れない。「お前らは外走ってろ」みたいな感じで、中学の周りの田んぼの中を延々と走るんです。飽きると、外のコートでシュート練習してみたり、隣に流れてた川から勝手に水引いてダム作ったり。やってることが中学生とは思えないんですけど、それを頑張ってやってました(笑)。 ――バスケ部という名目だけど、やってることは放課後の小学生だった。 升:そういう感じでしたね。それも、自分の精神論的には「中学生にもなったのにこんなことしちゃうぜ」みたいなマインドが絶対あったような気がします。 ――小学生時代の逆張りの感性みたいなものがあった。 升:そうですね。まあ言っちゃえば、それがバンド始めたきっかけでもあるので。なんでバンドをやったかっていうと、周りにバンドやってるやつがいなかったっていうのが、シンプルな答えなんですよね。

フジくんに「俺と一緒に日本のロックを変えようぜ」って。マジな顔でした

――升さんの音楽への目覚めはどんな感じでしたか? どんなところから音楽を聴き始めたんでしょうか? 升:意識的に自分で音楽を聴き始めたのは小5か小6ぐらいで。友達が買ったCDを貸してもらったり、ラジオで聴いた曲をカセットテープに録って何回も聴くみたいな感じで。当時は、いわゆるトップ10的なものをずっと聴いてた感じですね。B'zとかTMNETWORKとかを格好いいなと思って聴いてました。で、5つ上の姉がビジュアル系が好きで。X JAPAN、当時のXとかLUNA SEAとかのCDを勝手に自分の部屋に持っていって聴いてました。当時のビジュアル系って反主流な感じで、テレビにも出ないし、出たとしてもエッジィな感じだったんで、そういうのも含めて格好いいなって。別に自分がああいう格好をしたいとは思わなかったんですけど、音楽をやる上でのスタンスも格好いいなと思って聴いてました。 ――升さんが最初に藤原さんにバンドをやろうと声をかけたんですよね。それも周りの人がやってないことをやろうというような精神がきっかけだった? 升:そうですね。いわゆる中2マインドというか。当時は不良の時代だったんですけど、そこで目立つのも違うし、かといってバスケ部でガンガン試合出れるわけでもないし。だったらバンドというルートがあるって。自分の存在を知らしめたいという、中学生特有のこじらせた初期衝動がきっかけでした。とりあえず俺らが住んでる臼井には、知ってる限りでバンドをやってるやつはいなかったんですね。だから、これだ、と。ギターを買ってるやつはちらほらいたんですよ。それで、中2の夏の七夕の時に先生が「お前らなんか願い事書け」って言って短冊持ってきて、そこに「ベースが欲しい」って書いたんです。それも中2マインドなんですよね。そこに書いたって手に入るわけないし、つまり俺がベースを欲しがってるぞっていうアピールなんですよね。それで同じクラスの仲良かった友達が「じゃあ俺がドラムやるわ」と言って。俺とその友達は結構仲良くてCDの貸し借りもしてたし、音楽好きで。それで「ボーカルを探そう」となって藤原くんに声をかけたという。 ――藤原さんに声をかけた理由は? 升:フジくんになんで声かけたかっていうと、常に歌を歌ってて、歌が上手い人だったからで。マジでずっと歌ってる人だったんですよね。学校の校歌とか、いろんな歌を歌ってた。これは逸材見つけたぞ、早く行かなきゃって。クラスは違ったんですけど、帰りの学活が終わるのを待ってフジくんに「俺と一緒に日本のロックを変えようぜ」って言いました。 ――これはマジだったんですよね。 升:マジですよ。その時のマインドは本気でした。 ――どういう顔でした? 半笑いじゃないですよね。 升:それはもう、マジな顔でした。半笑いじゃないです。それくらい、ひねくれすぎておかしなことになってたんです。中2の進路指導の時にも「俺はサラリーマンにはならないんです」みたいなことを言っていて。バンドも始まる前だったんですけど。そういうことを言いたい人間だったんですね。いわゆる中二病だという。それがこじれてバンドにつながったっていう。

まずノートを買って、これからどうやっていくかを書いた

――そこからどんな感じでバンドが始まったんでしょう? 升:それでフジくんがいいよって言って。あともう一人の友達も登場して、じゃあ4人でバンドやるかって言って、とりあえず友達の家に集まったんです。それでまずノートを買って、これからどうやっていくかを書いた。1月にお年玉が入るからそこで楽器を買おう、みたいな。そしたらすぐやることがなくなって、後の時間はずっとマリオカートやってたり。で、お正月が来たんですけど、ドラムをやると言っていた友達がドラムじゃなくてギターを買って。「どうすんだ、お前」みたいな感じで、定期的に集まることもだんだんなくなってきて。 ――その時点ではノートに「バンドをやる」って書いただけですよね? 升:そう。何も始まってないです。で、その頃に藤原くんがエレキギターをお小遣い貯めて手に入れ、そのバンドにはいなかったチャマがベースを手に入れて。で、最後のピースとして、俺がドラムを手に入れるというイベントが発生して。 ――ドラムを手に入れたのはどういう経緯だったんですか? 升:俺とフジくんをつないでくれた友達がいるんですけど、そいつに「俺たちバンドやるんだぜ」みたいなことを言ってたんですよ。そうしたら、彼が家の近くにドラムが落ちてるのを見つけて「お前らバンドをやりたがってたよな」っていうので連絡くれたんですよね。ゴミ捨て場にあったのを彼が拾って家に持って帰ってたんです。「バンドをやる」なんて言いふらしてなかったらドラムは捨てられてたままだったんで、そういう奇跡は起こらなかった。言っておいてよかったなって思いました。それを家に運んで、じゃあ俺がドラムやるわということになって。で、藤原くんはギターを持ってるし、チャマとはずっと仲良かったし、ベース持ってるので入った。それでバンドを結成した感じですね。それが中3くらいのことでした。 ――まず何をどう始めたんでしょう? 升:家でドラム叩けないからどうしようかって言ったら、チャマの実家が居酒屋さんで定休日に使えるよということになって。別に防音も何もなかったんですけど、そこにドラムとかアンプを持っていって、定休日の火曜日の夜に毎週集まって練習するようになった。その時はもう2人のギターがいて。その5人で始まりました。

ビートルズからバンドっていうもの、音楽っていうものがわかってきた

――曲はどういう感じで始めたんでしょう? 升:最初はLUNA SEAの「BELIEVE」とかをやってたんですけど、まあ全然できなかったですね。でも、あんまり本人たちはよくわかってないから、集まって音出して楽しいなみたいな感じで。で、中3の文化祭で転機が訪れるんです。ビートルズマニアの生徒会長がいて、彼は生徒会長の立候補の所信表明みたいなところで弾き語りで「イエスタデイ」を歌っちゃうみたいなヤツで。もちろん同学年で交流あったんで、「お前らバンドやってるんだったら、一緒に文化祭でやらない?」みたいに持ちかけられて。で、その生徒会長とやっぱりビートルズが好きな副生徒会長と一緒にやろうって言って。でも、文化祭でライブするなんてことはそれまで誰もやってなかったんですけど。 ――どういう感じの文化祭だったんですか? 升:それまでは、みんなで工作を作って展示するくらいしかなかったんです。ステージがあってバンドが出てくるようなことは一例もなかった。でもそういう文化祭もあるらしいというのは知っていた。で、先生に相談してみようと。で、生徒会長が「お前らがいつもやってるような音楽だと理解されないかもしれないから、ビートルズとかそういう先生がわかるやつやった方がいいぜ」みたいに言って。それで「ツイスト・アンド・シャウト」と「スタンド・バイ・ミー」をコピーしました。どっちもビートルズのオリジナル曲じゃないっていうところがポイントなんですけど。あともう1曲、LADIES ROOMの「Get Lost」もやってました。 ――やってみてどうでした? 升:ビートルズからバンドっていうもの、音楽っていうものがわかってきたなっていう感じでした。こういう風にビートがあって、ストロークがあって、アンサンブルがこういう風に合うから面白いんだという。それがようやくわかってきた感じです。 ――ウケは良かったですか? 升:めっちゃウケましたね。有志によるバンド演奏みたいな括りだったんで、全校生徒が全員いるんですよね。女子は総立ちでした。男子はみんな座ってたんですけど。でも後でみんな友達に「すげえ良かったよ」みたいに言われて。その時の写真も卒業写真に載ってるんです。「アンコールって言ってるけど、どうする?」って言って、もう一回「ツイスト・アンド・シャウト」やろうとか言って。 ――そこからはどうなっていったんでしょう? 升:生徒会長たちとは、その時だけの限定だったんで、また自分たちのメンバーに戻って。その時は一人抜けて4人になっていました。で、クリスマスコンサートっていうのを企画するんですね。臼井に青年館という地域の集まりをする寄合所みたいなのがあって。そこに一応ステージと幕があって。持ち回りで地域の住民が管理するところなんですけど、ちょうど俺の母親が管理してて、そこを借りられることになったんで、そこでクリスマスコンサートやろうぜって。自分たちは文化祭の成功体験があるから「人来すぎたらやばくない?」みたいな感じでチケット作って。曲数も増やして、友達に声かけて、チケットも配って来てもらって。その時に、ずっと仲良かったヒロが手伝いに来てくれてたんですね。 ――増川さんはその時にスタッフをやってたんですね。 升:そうですね。楽器運んだり、幕を開けるっていう大事な仕事をヒロがやってくれて。でも、ヒロが「レディース・アンド・ジェントルメン〜」とか言って幕を開けたら全然いなくて。後ろの方に数人いるくらいで、全然盛り上がってなくて。早々に俺の母ちゃんが入ってきて「片付けよう」みたいな感じで。全て台無しみたいな。で、終わって片付けた後、来てくれた友達にも「すごい良かったけど、ライブとかどうすればいいかわかんなくて」みたいになぐさめてもらって。それがスベったのが一つの節目になったというか。高校受験もあるし、毎週火曜日に集まってたのも一旦お休みにして、各々進路への準備に入るというのが中3の3学期でした。

「こういうことをやりたい」という音楽に初めて出会ったのがグリーン・デイだった

――その当時、升さんは将来についてはどんな風に考えてたんですか。 升:何も考えてないです。チャマはいろいろ考えてたと思うんですけどね。絶対ミュージシャンになるという気持ちもあんまりなかったです。ただバンド楽しいな、みたいな感じしかなくて。でも、受験が終わって春休みになって、俺とフジくんはまたなんとなくチャマの家に集まるようになったんですね。もう一人いたやつはもう来ることはなかった。そのあたりにヒロと、またもう一人別のやつがギター担当として来るようになった。というのも、フジくんが家族にこっそりギター買ったので、学校から近いヒロの家をギターの隠し場所にしてたんですよ。それでヒロもギターを触るようになって。そこからギターを自分で買って、じゃあ一緒にやろうよみたいな感じで加入したっていう。その時点で、ようやくBUMP OF CHICKENの現在につながる形になりました。 ――高校に入ってからはどんな感じで続いていったんですか? 升:俺とヒロは同じ高校だけど、フジくんは違う高校だし、チャマは専門学校で。でも、毎週火曜にチャマの家で集まるルーティンがあって。高校に入ったらだんだん聴く音楽の幅も広がってきました。だんだん洋楽とかも聴き始めるようになって。コピーもしてましたね。 ――どんな音楽が好きになっていったんでしょうか? 升:中3くらいから洋楽というものがあるらしいと知って、ビジュアル系の流れで情報を得てたので、最初はボン・ジョヴィとかハードロック系を聴いてました。あと、フジくんの行ってた学校の先輩が結構メタル好きな人が多くて、それ経由でメタリカとかメガデスも聴くようになって。で、高1の夏くらいかな、友達に洋楽をちゃんと好きな人がいて。彼がグリーン・デイを教えてくれたんです。それで「これだ!」ってなりました。『Dookie』を聴いて「これは格好いいぞ!」と。あと「できそう」みたいな感じもありました。逆張りとかじゃなく、自分の中で「こういうことをやりたい」という音楽に初めて出会ったのがグリーン・デイだったんです。で、みんなに「こういうのあるぜ」って言って、一緒にハマってった。たぶん、ピンと来たのにはシンプルなアンサンブルで作っていくタイプの曲だからというのもあったと思います。 ――そこからグリーン・デイの曲をコピーするようになった。 升:そうですね。グリーン・デイの「She」とかやってました。グリーン・デイだけじゃなくて、ニルヴァーナとかオアシスとかもやるようになって。フジくんは自分の学校の先輩とバンド組んで、俺も呼ばれてドラムやってたんですけど、そこではガンズ・アンド・ローゼスをやったり。あとヒロと俺は高校で別のバンドを組んでたり、いろいろやってましたね。その頃はコピーバンドだったんですけれど、そのあたりからフジくんが曲を書き始めるようになったんです。それで高1の夏に「高校生音楽祭」に出ました。 ――これはどういうきっかけなんでしょう? 升:ライブがしたかったんですよ。で、当時はライブハウスでライブをやる人たちがいるのは知ってたけれど、そのやり方がわからなくて。で、雑誌に高校生限定の音楽コンテストが載ってたんで、それに申し込んでみようっていう。これだったら人前で曲を演奏できるし、上まで行けばレコーディングとかライブとかできるんじゃないかなって。それがきっかけで大会に出ました。デモテープをみんなでチャマの居酒屋で録音して、それを送ったらテープ審査に通って。たしか県大会みたいな感じでした。5バンドくらい出ていて、全然1位じゃなかったですけど、誰かが「負けたけど俺たち2位だったらしいよ」みたいなことを言い出して。「千葉県で2位ってことは、全国で言ったら100位以内に入ってるじゃん」ってことを言ったりして。

3単語のやつがいいって俺が言い出して、それでBUMP OF CHICKENって決めたんです

――「高校生音楽祭」にエントリーするには、バンド名を決めなきゃいけないですよね。 升:そうですね。3単語のやつがいいって俺が言い出して、それでBUMP OF CHICKENって決めたんです。みんな『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が好きだったし、「チキン」といえばマーティ・マクフライがキレる「弱虫」の方のチキンで。俺たち弱虫が激突するみたいなイメージでBUMP OF CHICKENって言って「いいじゃん」ってなって。それでバンド名が決まって出たのが最初の大会ですね。 ――その時の大会でやった曲は? 升:「デザートカントリー」っていう英語の曲でした。オリジナル曲はその一曲しかないのに、その夏に軽井沢に合宿に行ったりもしてましたね。で、そのあたりからもう一人のギターのやつと、だんだん温度差が出てきたんです。で、その翌年の1996年2月11日に「TEENS‘ MUSIC FESTIVAL」に出ようとなった時に、俺たち4人だけで出ようぜとなった。それでようやく結成までたどり着きました。船橋の伊藤楽器っていう楽器屋さんの広めのスタジオだったんですけど、それがお客さんの前でこの4人で初めてライブした日です。 ――この時は、自信のほどはどうだったんですか。 升:自信は常にありました。その時やった曲は「DANNY」だったんですけれど、「いけるぞ、DANNY最高!」みたいな。これわかんないやつはちょっとおかしいぐらいの感じで。でも、その手応え自体よりも、4人でやってソリッドな感じになったというか。これで塊になったみたいな手応えはありましたね。アンサンブルもそうだし、メンタリティ的にもしっくりきたというか。 ――そこで大会を勝ち進んでいった。 升:その後の千葉ブロック大会は千葉PARCOの上の広いスペースでやって。不思議な大会なんですよね。歌だけの人もいたし、コピーの人もいたし。そんな中でオリジナル曲やって。関東ブロック大会を日本青年館でやって、そこで奨励賞をもらいました。全国大会には行かなかったんですけど、勢いはあったと思います。ただ、レベルは全然違いましたね。技術もそうですけど、音楽の幅も広くて、「こういうことやる人いるんだ」みたいな驚きはありました。それまではバンドのない世界でバンドやってたような人間だったので。いろんな人たちがいるんだなっていうのはびっくりしたし、面白かったですね。 ――千葉と東京って違いましたか? 升:全然違いましたね。BURGER NUDSの前身バンドのSWEET GIRLSというバンドとそこで会って。すごいオシャレだったんですよ。「かっこいい!」ってなって。歳も同じだから、話すようになって、連絡先を交換したりしました。「東京すげえ」っていうのはありました。でも、ティーンズだから全員10代だったと思うし、そんな中でもなんか俺たちは負けてねえぞみたいな気持ちは人一倍あったと思います。 ――その後に何かしら業界からのリアクションはありました? 升:大会を観ていた人から呼ばれて会いに行って。「なんで英語で詞を書いてんの?」みたいなことを言われて「世界に通用したいからです」と言ったら「まず日本で通用する詞を書けよ」みたいな感じのことを言われて。そこから「ガラスのブルース」につながっていくという。

「ガラスのブルース」は、聴いてくれる人たちの反応が今までと全く違う感じだった

――1996年2月11日がバンドの始まりだったとすると、その次に「何かが動き始めてるぞ」みたいな感覚を得た時って、どんな時だったんですか。 升:「ガラスのブルース」はそういう意味では大きいポイントですね。まずフジくんが聞かせてくれて、その時も「すごいぞ、これは」っていう衝撃っていうのがあったんですけど、それよりも何よりも自分にとってすごいインパクトがあったのが、聴いてくれる人たちの反応が今までと全く違う感じだったんですね。チャマの家で練習してる時は友達もよく一緒にいたんですけれど、例えば「DANNY」だったら「かっこいいじゃん」みたいな感じだったのが、「ガラスのブルース」をやったら「今の曲すごいじゃん、歌詞とか見せてよ」とか「もう一回聴きたい」とか言われるようになって。そういう風に言われたのは初めてで。なんか「音楽が伝わるってこういうことなんだ」っていうのを、そこで初めて体感しましたね。それはものすごいデカかったですね。 ――最初のリスナーは友達だったけれども、そこで自分たちがバンドをやって音楽を伝えているという実感を得たという。 升:そうですね。だからそこで初めて外向きの視点ができたというか。もちろん、いいって言ってくれる人もいるし、大会で評価してくれる人もいるし、外に向いてなかったわけじゃないんですけれど。ただ、俺たちが楽しければいいじゃんっていうところで完結してたところがあったと思うんです。でも、そこから、自分たちの出している音がこういう風に人に影響を与えてるんだっていうのを実感できた。そういう意味で、ものすごいデカいポイントですね。フジくんが日本語で、自分の言葉で書いたという。 ――藤原さんが曲を書いたのはいつ頃のことでした? 升:1996年、高2の春から夏にかけてですね。2月の時には「DANNY」をやってたけど、そこからいくつか同時並行的にいろんな曲ができて。その中で日本語であったのは「ガラスのブルース」が最初だったという。で、1996年の夏に「Beat Brust in Japan」っていう大会に出るんです。「新感覚オーディション」と言ってたんで、コンテストじゃなかったかな。 ――メジャーデビューも意識したりしていました? 升:たしか、その頃は手当たり次第申し込んでたんで、募集があるからやろうぐらいのテンションだったはずですね。自分たちがデビューできるとは思ってないし、別に目指してなくて。でも、最後の天王洲アイルに行ったら、みんな衣装に着替えたり、ヘアメイクしたり、ガチの感じで怖かったなっていう。で、そこで優勝して。 ――その時はどう感じました? 升:優勝するとは思ってなかったです。一緒に出てた人たちがプロみたいな感じで、ガチだったんで。俺らはいつも通りやってたし、だからびっくりしたというか。審査員の方から「本当に今の彼らあげていいのかなって疑問はあるんですけど」みたいなことを言われながらの優勝で。楽屋に戻ったら周りの視線が怖くて。で、何かあるのかなって思ってたら別に何もなかったっていうオチなんですけど。 ――そこから何か状況は変わりました? 升:でも、そこからちゃんと話はつながって。当時お世話になった女性のスタッフに出会ったのが大きかったんですよね。そのあたりで俺らもようやくライブとかをやり始めるようになって。フジくんがコネクションを作って。そこから千葉LOOK、千葉ANGA、本八幡RouteFourteen、あとはサードステージあたりでライブやるようになって。そのライブにそのスタッフが来て、「今度下北でイベントやるから出てよ」って言われたのが東京でライブやるきっかけですね。それでCLUB251でやったのが初めての東京でのライブでした。対バンがTRICERATOPSだったんですよね。そこからその人が東京のライブハウスのブッキングを紹介してくれるようになって。それでいわゆる東京進出っていう感じでした。

次のライブの告知を送ったり、お金を管理したりしてました

――当時の下北沢のライブハウスに出るようになって、同世代や少し上の世代のバンドを見てどう感じてましたか? 升:たぶん同世代がいなかったんですよね。BURGER NUDSとかもその時は全然絡みがなくて。syrup16gとかHUCKLEBERRY FINNも親交はあったけど、世代的にはちょい上ぐらいで。いつも「君ら、若いね」みたいな感じで言われてましたね。Beat Brust in Japanの時もそうですけど、「プロみたいな人がいっぱいいるな」っていう。当時はインディーズが盛り上がってた時期で「なんでメジャーじゃないのかな?」みたいな人もいっぱいいました。 ――1997年には高3ですよね。そうなってくると進学とバンドの選択も出てくる。そのあたりはどうでしたか? 升:自分の場合は高校でデビューできたらラッキー、みたいなことはうっすら考えてました。バンドは続けつつ、進学しようみたいな感じで。誰も狙ってない指定校推薦を見つけて、それで上手いこと大学に進学しました。でも、たぶんその時もそんなにいろいろ考えてなかったです。学校のみんなも進学するし、家でも「あんたは進学するでしょ」って言われて、「まあ、そうかな」くらいの感じでしか考えてないですね。でもバンドはもちろん楽しいから続けたいっていうくらいで。将来設計とかは全くなかったし、先のことは考えてなかったです。 ――でもバンドの曲も増えていくし、動員も増えていくし、手応えを感じていたんじゃないでしょうか。 升:そうですね。1997年の夏に『NO REASON』という最初のデモテープのレコーディングをしていて。その時には「ナイフ」と「アルエ」と「ガラスのブルース」の3曲を録りました。で、1998年に入るとライブの数も増えたし、だんだん規模が大きくなっていった時期ですね。千葉ANGAとか千葉LOOKでワンマンができるようになってきた。ライブハウスで集客できるようになってきたんです。で、1998年の夏に8cmシングルのレコーディングをしたんですよ。3曲入りで500枚限定。それが初めてのCDのレコーディングだったですね。その発売記念のインストアをハイラインレコードでやって。その年の暮れに『FLAME VEIN』のレコーディングをやって、翌年の1999年3月にリリースしたという。だから、『FLAME VEIN』の曲って、「ノーヒットノーラン」以外はライブでずっとやってた曲なんですよね。 ――『FLAME VEIN』ができた時の感触はどうでしたか? 升:すごい嬉しかったですね、テープもあったし、8cmシングルもあったけど、いわゆるCDというものに辿り着いたのがすごい嬉しくて。「すげえ売れんじゃねえか」って思ってましたね。 ――この時点で音楽誌とかメディアの人たちはずいぶんと騒ぎ始めていたと思うんですが、その時はどんな風に感じてました? 升:どっちかというと、周囲とかメジャーどうこうっていうよりは、自分は集客のことを考えていて。ライブやるようになって、ちゃんと収益も出るし、スタジオ代もその中から出せるようになって、メンバーにも分配できるっていう。お金とかじゃなくて、ライブを続けていくために、ライブ告知とかちゃんとやった方がいいだろうなとか、そういうことを考えてました。MCで「次のライブは◯◯日です」みたいに言うんですけれど、みんな忘れちゃうから、アンケート配ってそこに住所書いてもらって、そこに次のライブの告知とか送ったらいいんじゃないか?みたいなこととか、すごいやってましたね。で、チャマにイラスト描いてもらって。Beat Brust in Japanの賞品がアップルのMacだったんですけど、それがようやくここにきて住所録として役に立ったという。そういう次のライブの告知を送ったり、お金を管理したりしてました。こういうことをやればしっかり人は集まるんだなって考えたりはしてましたね。周りの業界がどうとかっていうのは全然考えていなかったです。警戒はしてましたけど。 ――わかりました。では最後に聞かせてください。1996年2月11日がBUMP OF CHICKENの4人での初ライブで、1999年3月に『FLAME VEIN』がリリース。とても濃密な3年だったと思うんですが、その3年って、今の升さんから振り返ってどんな3年間だったと言えますか? 升:わかりやすく青春って感じですよね。みんなで楽器を持って、スタジオに集まって。ライブハウスの風景も蘇ってくるし。世界が広がっていくような3年間だったと思います。 取材・文 / 柴那典