「BUMP OF CHICKEN HISTORY #2」増川弘明インタビュー
2026.08.28
自分の知らない人にも、バンドを知ってもらえるようになってきた
――今回は1999年に『FLAME VEIN』が出た後、バンドの状況が徐々に変わりつつある中で増川さんがどんなことを思っていたか、というところからお話を聞かせてください。 増川:あの頃はちょうど大学に入った頃ですね。浪人していたんで、受験で合格して、4月から学生になった。すごく嬉しかったですね。ただ、もちろんバンドメンバーには素直に「やったよ、ありがとう」って言えたんですけど、ちょっと後ろめたい気持ちもありました。僕がバンドを滞らせちゃっていた立場だったんで。でも、『FLAME VEIN』も出たし、新しい大学時代も始まったし、どうなっていくんだろう、みたいな感じでした。 ――大学生活とバンドのバランスはどんな感じでしたか? 増川:この頃はもう気持ちはバンドに行ってました。大学に受かったという大義名分を得たことによって、気持ちがシフトした感覚があって。ほぼバンド最優先でした。もちろん午前中とか昼間とか、学校に行ける時は行ってましたけど。でも、どう考えても無理なスケジュールだったんじゃないかな。今思えば、もうちょっと考えて整理すればよかったなとは思いますけれど。軽音サークルをちょっと覗いてみたこともありました。どんなことやるんだろうって興味があって行ってみたんですね。高校時代に升くんと文化祭用に他のバンドをやったことはあったけど、他のバンドはそれくらいで基本的に俺はこのバンド以外知らないので。勧誘されて、新歓イベントの飲み会みたいなのに参加して。そこにBUMP OF CHICKENのことを知ってる子がいたんです。「え、本当に?」って、すごくびっくりしましたね。しかも1人とかじゃなくて、2、3人いたんです。結局、そこからサークルには行かなくなりましたけど。地元の友達に「知ってるよ」「聴いたよ」って言われるのと違って、自分の知らない人にバンドを知ってもらえるようになってきたという実感がありましたね。当時はようやくガラケーを持っていたぐらいで、SNSもなかったし、インターネットで調べることもしなかったから、情報が当の本人であるこっちまで伝わってこないんです。売り上げの状況とかも全然知らなかったし。本当にCDが並んでるのかなって、店に見に行ったりもしました。 ――この時期にはバンドにとって多くの出会いがあったと思います。増川さんの視点から振り返って、大きかった出会いは? 増川:この頃はsyrup16gとかハックルベリーフィンとかBURGER NUDSに出会った頃ですよね。そういうライブハウス界隈で会う人たちは、すごく刺激になってました。そのちょっと前までは、上手いとか下手とかに関係なく、とにかく自分たちが一番格好いいと思ってやってきていたんです。でも、やっぱり格好いい人は本当に格好いいんだ、ということをちゃんと認められるようになった。みんな全然敵じゃないし、優しくいろいろ教えてくれたりするし。いろんなことを知りました。僕らはそこまでなんとなくでやってきたんで、機材についても、「そのほうが楽だな、便利だな」と気付くことはたくさんあったと思います。だからといって、バンドマンあるあるのように、そういう人たちと飲み歩くようなことは全然しなかったんですけど。
共通の脳みたいなものがあったのかもしれない
――2000年に『THE LIVING DEAD』がリリースされました。タイトなスケジュールの制作だったと思いますが、増川さんとしてはどんな記憶が残っていますか? 増川:泊まってたわけじゃないけど、帰るのはいつも朝でした。今考えると、マジでどうやってたんだろうなって思います。朝までレコーディングで起きてて、次の日にもレコーディングでよくやってたなっていうか。というのも、自分たちの作業が終わった後もミックスが終わるまでずっと待たなきゃいけない状況で。それに時間がかかるんで、寝てもいいんですけど、あんまり寝れなかったです。 ――睡眠時間はほとんどなかった。 増川:そうですね。『FLAME VEIN』は今まで持っていた曲を録っていたんですけれど、『THE LIVING DEAD』は曲がほぼないところから作っていくっていう感じだったんで。藤原くんがまだ曲を書き上げてないのに、時間もないから録り始めるみたいな。机上の空論をしていくみたいな感じでした。ここにどんなメロディが入るかわからない、ここにどんな歌詞が載るのかわからないけど、ここは熱く弾こう、みたいな。そういうことを話し合ったりしてましたね。カオスだったと思います。それが全部終わった後、最後に「Opening」と「Ending」を入れるということを藤原くんが言っていて。それも朝だったんじゃないかな。当時のレコーディングのアシスタントエンジニアさんとは、それ以来ずっと会ってなかったんですけれど、近年になってNHK『SONGS』の収録で再会したんです。さすがにメンバーみんな「うわー、懐かしい!」ってなって、その時の気持ちを思い出しましたね。 ――増川さんとして思い入れの強い曲、当時の光景が思い浮かぶ曲は? 増川:「グングニル」はすごいと思いましたね。Aメロの1番と2番でコード進行の尺が倍になってるんですよ。「そんなことある?」って思って。弾いてる時はその部分がどうなるのかわからないんですよね。けれど、できてみると「こうなるのね」という。この曲に限らず、全てにおいてビックリすることばかりで、それが楽しくてしょうがなかった感じでしたね。「リリィ」も、イントロと曲中で同じリフに聴こえるんですけれど、実は長さが違うフレーズがあるんです。そういうのも、当時の藤くんは別段何の説明もせずに始めるし、こっちも「オッケー」って受け取ってやっていって。今だったら逆に考えられないです。「ちょっと待って、教えて。これ何小節になってる?」みたいに訊くし、メモを残そうとするんですけど、当時はそれさえもしようとしなかったので。怖い(笑)。何を見ながらやってたの?って思います。 ――何も書きとめてなかった? 増川:構成表はあったのかな。あの頃、僕はコードもちゃんと書けないし、譜面なんか当然書けないし。歌詞もなかった。「これ、どういう風にやってたんですか、教えてください」って今の若い子に聞かれたとしても、何の参考にもならないと思います。絶対にメモを書いたほうがいいし、今だったら当然書くし。こういう即席で決めたことほど、次の日に全然覚えてなかったりするんで。でも、チャマに聞いたり、藤くんに聞いたりして補完し合ってたとは思いますね。「あそこ、どうやってたっけ?」って、みんなで話しているから忘れないという。そういう共通の脳みたいなものがあったのかもしれない。 ――なるほど。4人の共通の脳みたいなものがある、というのはすごくBUMP OF CHICKENらしい話だなと思います。それこそ前回の取材でお伺いした幼稚園から小中学校のエピソードも、いろんなところで4人で話したことでそれぞれの記憶が鮮明に残っているんじゃないかと思うんです。それと同じかもしれない。 増川:わかります。きっと、みんなで記憶を反芻してるんですよね。だから、時々ちょっとわかんなくなっちゃうというか、「これ、俺の記憶だったっけな?」っていうこともたまにあって。みんなで話してる時に「あれ? あの時、いなかったじゃん」って言われて、「そっか、4人でその時のこと話してたから俺も行った気になってただけか」みたいな。
いろんな思惑とか力みたいなものを肌で感じ始めていた
――この頃はメジャーデビューに向けての話も動き始めていたと思います。環境の変化について、増川さんはどう感じてましたか? 増川:いろんな思惑とか力みたいなものを肌で感じ始めていた感じでしたね。最初に声をくれた女性スタッフが「このレーベルがいいんじゃないか」と言ったり、「いや、こっちがいいんじゃないか」みたいな人がいて。でも僕ら自身は「いやいや、こっちがいいんだよね」みたいなのもあったり。それを話し合ったり、すり合わせたり、時には揉めたりしつつ、最終的には僕らが行きたいと思っていたTOY'S FACTORYに決まったという。ちゃんと決まるまでは、そういう不安な時期でもありました。 ――当時のファンの中ではインディーズからメジャーに変わることに対して「やったね、おめでとう」だけではなく「BUMP OF CHICKEN、メジャーに行っちゃうんだ」みたいな、ちょっとネガティブな受け止めもされていた時期だったと思います。このあたり、増川さんはどう感じていましたか? 増川:たしかに「なんでメジャー?」という反応もありました。僕らとしても「何がどう違うの?」みたいなのも当時はそこまでわからなかったし。だから、そういうのとは関係なく「この人たちと一緒にお仕事をしたい」というのが大きかったですね。それがメジャーデビューだったというだけで、僕らはそれをそこまで大きく捉えてなかったという。結果、「ダイヤモンド」でメジャーデビューしても、関わる人がちょっと変わるくらいで、しばらくはそんなに環境も変わらなかったです。
ラジオはすごく大事で、僕らにとって重要なメディアのひとつ
――2000年に「ダイヤモンド」でメジャーデビューしたわけですが、その後の状況を振り返って、どんな記憶がありますか? 増川:この頃はとても忙しかったですね。それまではライブやって、リハして、レコーディングしてという3つの軸しかなかったんですけれど、急にそれ以外のお仕事がいっぱい入ってくるようになった。ラジオや雑誌に出させてもらったりすることも増えて、たぶん今よりも忙しかったと思います。中でも、ラジオはすごく大事で、僕らにとって重要なメディアのひとつですね。 ――BUMP OF CHICKENはbayfmでレギュラー番組『PONTSUKA!!』もありますし、ラジオを大事にしているイメージはすごくありますね。 増川:そうですね。この頃からbayfmとの付き合いも生まれたし、他のいろんな地方局のコメントを求められることも多くなって。全国のラジオ局を行脚することもありました。この頃に『オールナイトニッポン』も始まりましたし。やっぱりそういうのが入るとすごく忙しさが増すんですよね。そういう嵐の中で、戸惑いつつも、いろんなことが進んでいく時期でもあって。その流れとか渦のようなものが、「天体観測」の時に、ものすごい大きなことになったなっていう印象があって。 ――ブレイクの渦中の実感はどんな感じでしたか? 増川:そこは本当にびっくりしました。うまくやれてたからよかったけど、下手したら心を病んじゃうぐらいの感じでした。どこに行ってもパシャって写真を撮られるんですよ。公開ラジオでもみんな撮影しちゃうんですよね。そういうギャップにちょっと苦しんでたと思います。ライブの感じも変わりましたね。10代の頃は、いつも来てくれる人と終わった後にちょっと話したりもしてたんですよ。写真を頼まれたら撮るし、サインも書くし、「久しぶりだね」みたいにこっちからも声をかけたりもしていた。でも、お客さんがどんどん増えていって、そういうのもだんだん難しくなっていって。楽屋から離れるわけにもいかなくなって、会いには行けなくなる。ちょっと申し訳ないなって思った気持ちを覚えてますね。ただ、戸惑いはしてましたけれど、基本的には楽しんでましたね。嵐の渦中にいながらも、4人ではめちゃめちゃ笑ってたし。ラジオ局からラジオ局に移動するタクシーでも、本当にアホなことを言い合ってたし。そうして保たれてたのかもしれないです。 ――この頃にはフェスへの出演も増えてきましたね。 増川:ROCK IN JAPAN FESTIVALに最初に出た時は、たしか出番が初っ端だったんですよ。渋谷(陽一)さんが紹介してくれたのを覚えてて。売ってるグッズでもなんでもない4人のお揃いのTシャツを着たりしてましたね。あれだけ大きな野外のステージでやることも初めてだったし、フェスのお客さんには、ワンマンのお客さんとは違う、こっちを探ってくるような感触もあって。そういう空気も初めて知りましたね。 ――ROCK IN JAPAN FESTIVALだけでなく、いろんな地方のフェスに出ることで、自分たちの居場所が広がっていった感じもあったんじゃないかなと思います。 増川:少なからず、僕らの歴史の根幹の一つになってると思います。たとえば地方のラジオ局主催のイベントに出たり、そういう中でいろんなつながりができていって。今では、地方のラジオ局に行ったらそういう人が偉くなっていたりして、「お久しぶりです」って挨拶したりして。この頃にこういうつながりを持てたからかなって今は思いますね。 ――ラジオとフェスって、どちらもローカルな場ですよね。BUMP OF CHICKENは数字だけで振り返ると「天体観測」でブレイクしたバンドなわけですが、ほぼ同時期に、いろんなローカルな人たちと信頼関係や共闘関係みたいなものを結んでいたのが大きいと思います。 増川:そうなんですよね。おっしゃる通りで、そこで長く続く出会いがたくさんあった。たとえば大阪のFM802と「RADIO CRAZY」もそうだし、ローカルのラジオ局が今はフェスをやっていて。ありがたいですよね、本当に。意識はしてなかったですけど、それは得ようと思っても得られない財産になっていると思います。
僕から渡したのは1で、残りの99は藤原くんが作ったみたいなもの
――2002年に『jupiter』がリリースされましたが、増川さんの思い入れの強い曲は? 増川:やっぱり思い入れで言うなら「キャッチボール」ですね。この頃は、部屋に泊まるでもなく、どこかに遊びに行くとかでもなく、しょっちゅう藤原くんと会っていて。そんな流れの中で、よくバドミントンをやってたんですよ。その時に藤原くんが住んでた家の近くの公園とか神社とかでやってたんですけど、結構ガチで打ち合っていて。そういう時に、俺が「こういうのあるけど、どうかな」みたいな話をして。 ――増川さんから藤原さんに曲のアイデアを聴かせた。 増川:そうは言っても、僕は全然曲もちゃんと書けないし、アイデアといってもギターのワンフレーズくらいのものなんですよ。で、2人で箱根に行くことになった時に、そこにギターも持っていって作ったのがこの曲で。箱根から帰ってきてみんなに聴いてもらったのを覚えてます。僕が渡したのは1で、残りの99は藤原くんが作ったみたいなものなので。アイデアになるようなものを渡せたのかはわからないけれど、すごくいい思い出ですね。 ――そのバドミントンの時の光景が「キャッチボール」として描かれたと。 増川:そうですね。とても貴重な体験だったなと思います。僕個人としては、自分もミュージシャンですけど、ゼロから生み出す人のことをものすごくリスペクトしていて。もちろん目撃はしてるんですけど、すごく神聖なものだと思っていて。そこにアレンジで力添えできたら嬉しいけれど、そういう神聖な部分に触れるのは恐れ多いという感覚があって。だから、その中に加われたことがすごく嬉しかったです。 ――2002年は『jupiter』がリリースされた後も活動の密度はとても濃かったと思います。対バンツアーもあり、その年には「スノースマイル」もリリースされています。 増川:「スノースマイル」はリリース日に北海道でラジオ局のイベントに出させてもらって。すごく寒かったのを覚えてます。ライブも多かったですね。
毎回、ズシッと重たい一撃をもらうように曲と向き合っていた
――2004年には『ユグドラシル』がリリースされました。2003年から2004年にかけて、制作時期を振り返ってどんな記憶がありますか? 増川:このあたりはヘビーでしたね。特に「ロストマン」は、曲が僕らのところに来るまでにもすごく時間がかかって。藤原くんのかなりコアな内面を描いているようなところもあって、だから時々怖くなるようなこともありました。やってること自体は普段と変わらないんですけど、そのムードが自然と僕らにも伝播していくというか。これはただごとじゃない、みたいな曲しか出てこないんで。毎回、ズシッと重たい一撃をもらうように曲と向き合っていた感じです。 ――升さんはドラムの先生に個人的についたり、チャマさんも演奏力の向上や音楽理論を学ぶような時間もあったと言ってましたが、増川さんとしてはどうでしたか? 増川:それはもちろんありました。誰か特定の人に習うというのはなかったんですけれど、全然できてなくて「このままじゃダメだ」という意識はすごくありましたね。楽曲のクオリティと繊細さがどんどん上がっていたので。この頃は本当に一筋縄ではいかない曲ばかりですね。ギターをギターのように聴かせなくてもいいし、決められた弾き方じゃなくていい。アプローチの仕方にお手本がない曲ばかりで。知らないことが多すぎるということに、本当に打ちのめされるようなことも何度もありました。 ――『ユグドラシル』の中で、思い入れの強い曲、当時の記憶や光景が鮮明に残っている曲は? 増川:「車輪の唄」ですね。僕、こういう音楽はあんまり通ってこなかったし、よく分からなかったんですよ。でも前から藤原くんはそういうのが好きだったんですよね。だから一緒にレコード屋さんに行っても、入り口で別れて、僕がロックのコーナーに行ってるあいだに藤原くんが違う階に行ってるみたいなこともあって。そういうものが彼の中で消化されて、BUMP OF CHICKENとして生まれはじめた。これも知らないことが多すぎるっていう、その一つだったかなと思うんですけど。こういうリズムに初めて出会った頃じゃないかな。 ――曲が求めるものが大きくなり、それで必死に食らいつくみたいな時期だった。 増川:そうですね。かつ、自分の中での正解も分かってないというか。難しいですよね。ここら辺はやっぱり悔しいこともたくさんありました。全然追いついてない部分もありましたし。みんなが100%以上の力を出さないと届かないというか。『THE LIVING DEAD』の時のように、理解ができないままで進むわけにはいかなくなっていて。わかった上で、ちゃんと音符通りに弾く。だから時間がかかっちゃったという。近年、この頃の曲をライブでやるようになって、ようやくあの頃弾けなかったものを弾けるようになった感じもありました。その時は精一杯やってたけど、やっぱり追いつけてなかったなって思いますね。
自分は「BUMP OF CHICKEN特化型」
――そういう中で、増川さんのギタリストとしてのアイデンティティって、どんな風に育っていったと思いますか? たとえば自分にとってのギターヒーローのような人はいましたか? 増川:自分は「BUMP OF CHICKEN特化型」というか、このバンドに必死に食らいつくことだけをしてきてたので。明確にギターヒーローとして誰かを追ってきてなかった感じですね。もちろん、その時その時ではいるんです。いろんなミュージシャンの曲を聴いて、いろんなギタリストのフレーズに「こういうの格好いいな」って思ったりもしてきたので。けれど、じゃあそれが自分のプレイスタイルになっているのかっていうと、そんなことはないというか。BUMP OF CHICKENの曲がよく聴こえればいいというか。それだけなのかもしれないですね。あとは、この頃はまだそこまで行けてないけれど、次のアルバムの「flyby」とか、ああいうリフレインするフレーズをグルーヴに乗って弾いているときが一番気持ち良かったりするんですよね。別に強い主張を持って弾いているわけではないけど、僕の中ではイケてる瞬間というか。そんな感じがします。 ――折れそうな時はありました? 増川:あったといえば、常にありましたね。やっぱり藤原くんはどんどん上手くなっていくんです。ギターもめちゃめちゃ上手いし、彼だったら弾けるし。今だったら「こういう風に練習すればよかったのに」って思うんですけど、練習の仕方自体が下手だったし。折れそうって言ったらずっと折れそうだったと思います。でも、それでも弾きたいという気持ちは消えなかったし、やっぱり「好き」という気持ちのほうが勝つというか。それはメンバーに対してもそうだし、曲に対してもそうだし。あと、さっき言ったような気持ちいい瞬間はやっぱり味わってるんで。 ――そういうものを乗り越えてきて、今に至っているのではないかと思います。 増川:そうですね。たくさん救われてきたし。レコーディングはリリースするまでの作業なので、そこで何か悔しさを残してしまったとしても、ありがたいことにここまでやってきてるんで、挽回できるチャンスをいっぱい貰えるんですよ。たとえば「車輪の唄」だって、何度もライブでやってきたけれど、その中には悔しいなって思う日もあるんです。でも、また今後のライブで、それをさらに上回る演奏をするチャンスをもらえる。「レム」なんて、こないだのツアーで初めてバンドでやったわけで。それはすごくありがたいですね。
嵐の大海原を笑顔で漕いでいくみたいな感じだった
――では逆に、シンプルに楽しかった、嬉しかった記憶としてはどんなものがありますか? 増川:いっぱい初めての経験をさせてもらったんで。そういうのは全部楽しかったですね。『ONE PIECE』で初めて書き下ろしのタイアップをやって、尾田栄一郎先生とお会いしたのもそうだし。『テイルズ オブ ジ アビス』もそうですね。僕らはゲームというものに対して並々ならぬ思いがある人たちなんで。それまでは好きなゲームが出たら買ってプレイするだけの立場だったのに、制作前から話を聞いて。どういうゲームかを知るためにテイルズの最新作をプレイしてみたり、そういう向き合い方も初めてでした。あとは僕、MVの撮影も大好きで。出来上がった曲に対しての作業なんで、少し客観的でもあるし。シンプルに出かけてロケしてっていうのがすごく楽しくて。そういう楽しいお仕事もたくさんあったし、誇らしいこともありました。 ――MVについてはどうでしょう? 撮影を振り返って、印象に残っているものは? 増川:「ダイヤモンド」ですね。たしかハイエースみたいな車をマネージャーが運転して足尾銅山に行ったんです。朝から一日がかりの撮影だったんですけれど、だんだん暗くなってきちゃって。僕のカットの時は真っ暗になっちゃって、車のライトかなんかで照らしたんですよね。その時の焦った気持ちは覚えてます。あと、当時はまだ、自分たちで買った服を着て撮ってるんですけど、今見ると可愛いなって思います。そういうところから、だんだんセットが組まれたり、見たこともないような大きなカメラを使うようになっていって。たしか「スノースマイル」の時はロッジみたいなところにみんなで泊まりました。それも楽しかったです。「メロディーフラッグ」も良かったです。屏風ヶ浦の海沿いの崖みたいなところに行って。その崖の端の方まで行って、藤原くんと2人でお互いが支え合うようなシンメトリーの形を作って遊んでましたね。その姿をチャマに写真に撮ってもらったりして。それが今、僕らのことをチャマが撮ってSNSに上げてる面白い写真のはしりのような気もします。 ――では最後に聞かせてください。BUMP OF CHICKENの最初の10年、特にメジャーデビューからの5年あまりは、バンドにとって、そして増川さんご自身にとってどういう期間だったと思いますか? 増川:嵐の大海原を笑顔で漕いでいくみたいな感じだったんですよね。先のことは分かんないけど、とにかく次の波をゲラゲラ笑いながら越えていく、みたいな。楽しいだけの時間ではないんですけど、とにかくものすごく大きな風とか流れを乗り越えていったような時代だったなと。そして、たぶん傍から見たら振り落とされそうな俺がいたんじゃないですかね。やっぱり1人じゃとても無理だっただろうし、前は「青春」という言葉を使ったと思うんですけれど、だんだんと友達同士の青春というだけのところから、何か確固たるもの、目指すものが生まれていったと思います。
取材・文 / 柴那典