「BUMP OF CHICKEN HISTORY #2」藤原基央インタビュー
2026.08.28
ビッグマウスでいなきゃいけないって思ってました
――『FLAME VEIN』が出た後は、バンドの状況が少しずつ変わっていく時期だと思います。その頃、藤原さんはどんなことを思っていましたか? 藤原:バイト先のカフェをついに辞めた頃ですね。『FLAME VEIN』の歌詞カードは、カフェの休み時間に、お客さんに混じって賄いを食べながら書いてました。『FLAME VEIN』が出た後、銀行の口座に毎月ギリギリお金が残るようになって。その時の収入は、バイト代と、ライブの売り上げだったんです。チケットノルマを捌ききった後のキャッシュバックの半分をバンド貯金にして、もう半分を4人で分けていたんですけど、それでギリギリやりくりしていけるようになって。バンドもだんだん忙しくなってきて、バイトを辞めようとなりました。二十歳になってちょっとぐらいの時だったと思います。 ――バイト先はどんな感じでしたか? 藤原:チャマと一緒に働いてたんですけど、ほとんどが年上で、みんなめちゃくちゃ優しくて。バンドも応援してくれていて。辞めることになっても、みんな喜んでくれて。「辞めてもたまに遊びに来てね」って、笑って送り出してくれて。それも嬉しかったですね。 ――シングルの「LAMP」が出たあたりで、雑誌とかメディアで取り上げられることも増えていったと思います。この頃の感触は? 藤原:「自分たちのやってることにメディアがかまってくれるんだ」みたいな、不思議な気持ちでした。インタビューでは、とにかくすごいことを言わなきゃいけないみたいな謎のプレッシャーに駆られて、4人とも一生懸命喋ってました。尖らなきゃ、そう見せなきゃっていうところもありましたね。ビッグマウスでいなきゃいけないって思ってました。
僕がわかっていなかった僕の詞と曲の強みを、僕以上に理解して説明してくれた
――この時期にはいろんな出会いがあったと思うんですが、振り返って藤原さんにとって大きかった出会いを挙げるならば、どうでしょうか? 藤原:TOY'S FACTORYの方との出会いが大きかったです。この当時は、たくさんの大手のレーベルの方がライブを見に来てくれたり、その人たちから声をかけられたりしていて。ただ、僕らの手伝いをしてくれていた女性スタッフの方が、その状況をあまり良くないと思って。「ライブはぜひ見に来てほしいけど、まだ若くて右も左もわからないメンバーに声をかけるのは待ってくれないか」って言ってくれたんですね。「後日必ずこちらでその場をセッティングします」と。それを全部無視して千葉LOOKの楽屋に来ちゃったのがTOY'S FACTORYの人で。その人がその時楽屋で言ってくれたのは、ただ「ファンだ」ということだけですね。そうやって、どこのライブにもついてきてくれて。当時、初めて遠征もしたんですよ。名古屋、大阪、広島、福岡と、友達の運転でハイエースに乗ってみんなで行って。それもその人は全箇所観に来てくれた。その人と、その後何十年もずっと一緒に仕事することになりました。とても大きな出会いだったと思います。 ――どういうところが特別だったんでしょうか? 藤原:情熱があったということもそうだし、僕がわかっていなかった僕の詞と曲の強みみたいなものを、僕以上に理解して僕に説明してくれたというのがとても大きかったです。「お前のメロディがいいのはこういうところだよ」みたいに言われて、「なるほど、言われてみると確かにそうだな」って。たくさんのレーベルの方とお会いしたんですが、その人から言われたことが僕にとっては一番大きかった。そこまで踏み込んで言ってくれる方はあまりいなかったですね。メジャーとかそういうことじゃなくて「この人と一緒に仕事がしたい」という気持ちでTOY'S FACTORYでやることになりました。 ――『THE LIVING DEAD』を作る時にはもう知り合ってました? 藤原:知り合ってました。レコーディングに来るなとも言われてたのに、遊びに来ちゃうんです。『THE LIVING DEAD』は、今思うと自分たちにとって実験的なことをやっていて。試行錯誤しながら、いろんな挑戦をしていたんです。「リリィ」もそうで、ディレイフレーズを基軸にアンサンブルを組んでいったのは、あの曲が初めてだった。「すげえいいと思うんだけど、どうなんだろうな」と思いながらトラックダウンしてる時に、背後からデカい声で「めちゃくちゃいいじゃん、これ!」って言われて。振り返ったらいきなり後ろに立ってて。そう言ってくれることで、背中を押してもらったような気持ちになったこともありました。
みんなフラフラしていて、ゾンビみたいだなって
――『THE LIVING DEAD』はかなり制作期間が短かったと思いますが、振り返って、どんな記憶がありますか? 藤原:この時はaLIVE RECORDING STUDIOというスタジオでレコーディングしていました。すごく立派なスタジオで、「何日から何日までここのスタジオを押さえたから、その間にアルバムを録ろう」って、お手伝いしてくれていたスタッフに言われて。それでレコーディングに臨みました。今思うとよく断らなかったなと思うんですけど、曲がないんですよ。「ランプ」と「バトルクライ」の他に何にもない。どうしようとなって、大慌てで曲を作りました。これもむちゃくちゃな作り方で。やっぱり歌詞に一番時間がかかるんで、後回しにして、オケから作り始めました。まずAメロが何小節で、こういうコード進行で、ドラムはこういうビートで、ベースはこういう感じでみたいに、みんなに伝えて、みんなでそれをプレイして、それを録る。録ってる最中は、どんな言葉をどんなメロディで歌うか、みんな知らない。その状態でオケを録り終えて。そこから急いで歌詞とメロディを書く。そういうことを何回か繰り返して、出来上がった感じです。 ――かなりの急ピッチだった。 藤原:毎日家には帰ってたんですけど、缶詰みたいな感じでしたね。昼ぐらいにスタジオにバスで向かって、帰りはスタッフさんが車で送ってくれる。2、3曲ぐらい録ったらトラックダウンする。レコーディングが終わった後、その日のうちにトラックダウンするんで、エンジニアさんの作業が朝までかかるんです。みんな若いから、それを待つ間、ゲームやったりワイワイしたり、寝てるやつもいて。明け方ぐらいにエンジニアさんから「できました。聴いてみましょう」って言われるんで、みんなで聴きに行って「もっとこの音を大きくしてください」とか「ここもうちょっとリバーブかけてください」とか、いろいろ言いながらミックスを終えるわけです。寝てなかったと思いますね。レコーディングをしてるか、アンサンブルを考えてるか、フレーズを作ってるか、歌詞を書いてるか、歌録りしてるか。ずっとそういう感じでした。みんなフラフラしていて、ゾンビみたいだなって思って。それで『THE LIVING DEAD』ってタイトルになりました。 ――振り返って、藤原さんとして思い入れの強い曲、当時の光景が浮かぶ曲は? 藤原:「グロリアスレボリューション」は、もともと曲があったんですよね。「ガラスのブルース」を書く前に、でたらめな、適当な英語で歌ってた時期があったという話をしたじゃないですか。その頃の曲なんです。それを引っ張り出してきて、新しく日本語の歌詞をつけたんですよね。デニーズでその作業をしてました。 ――「K」など、ファンタジーのような物語の世界観で歌詞を書くっていうのは、それまでの曲ではなかった手法ですよね。 藤原:これは僕が完全にネタ切れだったんです。一曲一曲大切に作っていきたいなと思ってたわけですよ。自分の伝えたいことが宿ったものを書きたい、と。それが急に、数日間という限られた短い時間の中で、アルバム単位のまとまった曲数を書きなさいと言われて。僕が僕のことを一生懸命僕の言葉で歌詞にしようとすると、やっぱりどうしても時間がかかるんです。でもそんな時間がないという状況の中で、物語の中の人物に自分の伝えたいことを重ねていくことなら、書けそうだなと思って。それで『THE LIVING DEAD』は物語調の曲が多いんですよね。船出する話とかいろいろありますけど。 ――この手法なら言葉が生まれる、みたいな発想だった。 藤原:そうです。そうしたら、僕の生きたことのない人生でも、そこで起きる心の動きみたいなものは、知ってるものだったらそこに宿すことができる。だったらこれは可能だって。どうしても、小手先のものは作りたくないっていうのはあったんです。そこに自分のハートがこもっていないと世の中に出したくない。そうして書いてみたら、これはいけるってなったんでしょうね。ただ、当時の僕は、本来物語じゃない方が書きたかったはずです。 ――「ダイヤモンド」からはメジャーでのリリースですが、制作はどんな感じでしたか? 藤原:曲を作ってくれとTOY'S FACTORYの人からすごい言われて。「そんなに言うんだ」って思ったんですけれど、そりゃそうですよね。契約しているわけだから。デビューシングルを書くということになったんですけれど、これもすぐに書けなかったですね。とりあえずYAMAHAのQYっていうシーケンサーに打ち込んで、曲だけは完成したんですよ。でも、本当に歌詞が書けなかった。『THE LIVING DEAD』に続いてまた物語みたいに書くのは違うと思ったんでしょうね。歌詞が書けないから、シーケンサーをいじることぐらいしかできなくて。やたらあの時にQYの技術が上がったんだよな。後で弾き直すであろうギターを一生懸命リアルに打ち込んでみたりして。同じような時期に「ラフ・メイカー」も書いてたのかな。それで歌詞もできてないのにプリプロして。「ラララで歌ってくれ」って言われて、ラララで歌入れて。その時にラララで歌うってことがすごく嫌だなって僕は思ったんですよね。なんで嫌だったのかは、後でわかることになるんですけれど。で、ようやく「ダイヤモンド」の歌詞が書けて。TOY'S FACTORYの人に電話したら、「もうすぐ会社に戻るから、ファックスしといて」と言われて。ファックスなんか送ったことないから、送り方をその場で指示されて。当時住んでたアパートから1kmくらい離れてたコンビニのコピー機で送って、届いたって言われて、安心して家に帰って。そうしたらノートをコンビニに置いてきちゃって。大急ぎでダッシュして取りにいったらコピー機に挟まったままになっていた。あのノートが見られたら恥ずかしかったな。
気付いたら塗りつぶし跡ばっかりの真っ黒なノートになっていた
――「天体観測」を作っていた時の記憶にはどんなものがありますか? 藤原:「天体観測」はこれも打ち込みで作っていて。今でこそ珍しくないですけれど、当時は四つ打ちのギターロックってあんまりなくて。でも僕は昔から四つ打ちが好きだったんです。で、そういうオケだけが先にできた。曲はバッチリできていたと思います。イントロのフレーズを打ち込んで、メロディもできて、最初に完成した時はポップすぎないかな、メンバーは嫌かもなと思っていたことを覚えています。でもレーベルの人たちが「これめっちゃいいから、早く歌詞を書いて」って言って。プリプロに入って、バンドでデモ音源だけ録って、「ラララで歌ってくれ」って言われて。でもラララで歌うのがやっぱり嫌で。その後、歌詞が書けなくて。小説家の人が温泉宿に何カ月も泊まって、頭をかきながら書いては丸めてポイッとやる、みたいなのをみんな見たことあるじゃないですか。だから、あんな風に環境を変えたら書けるんだろうかと思って箱根に泊まりに行ってみたんです。 ――歌詞を書くためだけに箱根に行った。 藤原:そうしたら、別で進行していた「Title of mine」の歌詞は書けた。愚痴の塊みたいなやつがドロッと出てきて。書けたけど、「やろうとしたのはこれじゃなかったんだけどな」と思いながらすごすごと帰ってきて。で、1回目は「Title of mine」が書けたから、もう1回行ったらあの曲の歌詞も書けるかもしれないと思って行ったんです。でも書けなくて。その時にTOY'S FACTORYの方から電話をもらって、「あの曲の歌詞、書けたか」って言われて。「いや、まだです」って言って。「ちょっと会おうよ」って言われて、「今、箱根にいて」って言ったら「なんでお前、箱根にいんの?」って言われて、「かくかくしかじかで」って話したら、こいつやべえと思われたみたいで、「今すぐ行く」って言われて、真夜中に車を飛ばして来てくれたんですよね。「お前、何やってんだよ」みたいに呆れながら笑われて。「そんなに追い込まれていたんだな。そんなにつらかったんだな。ごめんな、気づけなくて」みたいに言われて、俺も逆に「そんな状態だったんだ」って思って。書いては消して、書いては消してを繰り返しているノートがあったんです。最初は消しゴムで消していたんですけど、ちょっとでも残ったやつが見えちゃうと、そっちに引っ張られちゃうんですよ。なので、そのうち上から塗りつぶすようになったんです。で、気付いたら塗りつぶし跡ばっかりの真っ黒なノートになっていて。それで「わかった。じゃあ、もうあの曲のことは一回忘れろ」みたいに言われて、その人はお題を出し始めたんです。たとえば、「いま目の前にあるこのペットボトルのレモンティーで一句、何か書いてみて」とか。誰でも知っているヒット曲のキラーワード、たとえば「愛してる」で一句書いてみて、みたいな。一曲まるまる書かなくてよかったんですよ。ワンコーラス分くらい書くだけで。そうやってゲームみたいな感覚でやっていると、どんなお題に対しても、それなりに俺っぽいものを書けるんですよね。それで、「大丈夫、書けるじゃん」みたいな感じで言われて、「本当だ、書ける」ってなった。「そっか、こうやって書くんだった」って思い出して。一晩のリハビリって感じでした。あまりにも一曲に向き合いすぎて、自分に対していろいろ課しすぎて、何も書けなくなっちゃって、ただただノートに言葉を書いて塗りつぶすだけの男になっていた。でも、そうやってゲームみたいにやったらスラスラ書けた。それで「今日はもう温泉に入って寝ろ。それで明日、何もせず帰れ」って言われて。言われた通りにして、次の日に帰りました。その時のノートは今でも取ってあります。 ――それを経てようやく歌詞が書けた。 藤原:帰って、2、3日くらいでさらっと「天体観測」が書けました。その時に思ったのは、やっぱり自分の生活圏から出て行ったから書けなかったのかもしれない、ということで。自分の住んでいるアパートの中でこれが書けたっていうことは、そういうことなんだな、みたいに、妙に納得した記憶があります。それが「天体観測」でしたね。 ――『jupiter』の制作を振り返って、音楽的な手法の広がりや、新たに取り入れた要素としては、どんなものがありましたか? 藤原:L/R、音の定位っていうものを、より意識するようになりました。L/Rで作るステレオの音像が、アンサンブルを考える段階から入っている。そこが大きかったと思います。ようやく基本的なことをやり始めた感じですかね。『THE LIVING DEAD』までが野生すぎたんで、『jupiter』で常識的なことを学びました。でも、やったことはやっぱり変なことがすごく多かったです。 ――この当時の藤原さんが聴いていた音楽、刺激になったものは? 藤原:『THE LIVING DEAD』の頃はいろいろ聴いてました。その時に自分の中で旬だったもので覚えているのは、Queen、Simon & Garfunkelなどです。90年代のオルタナも引き続き聴いてました。『jupiter』の頃はブルーグラスとかアイリッシュを聴いてた時期でした。これも10代の頃から好きなジャンルではあったんですけれど、タワレコのワールドミュージックのコーナーで「ここに来ればこういう音楽が買えるんだ」みたいなのを20代前半の頃に知って。名前も知らないバンジョー奏者のCDを買ってみたり、タワレコがレコメンドしているドブロギターの名手のCDを買ったり。そこから知ったそっち系のミュージシャンがたくさんいますね。
自分たちの本質を守るために、いろいろな面で必死だった
――2003年には「sailing day」がリリースされました。映画『ワンピース THE MOVIE デッドエンドの冒険』の主題歌でしたが、オファーを受けてどう感じましたか? 藤原:嬉しかったですね。『ONE PIECE』はメンバーみんな大好きで、連載開始当初から「めちゃくちゃ面白い漫画が始まった」と、ずっと追いかけ続けていたので。お話をいただいて、本当に夢のようでした。 ――曲の書き方についてはどうでしょうか。タイアップの曲を書くときに藤原さんはよく「先方が表現しているものとバンドが表現しているものの重なる部分を書く」と言っていますが、きっとまだこの時はそういう方法論も手探りだったのではないかと思います。 藤原:そうですね。当然、今の僕のようなロジックは全く持たずにやっていたと思います。ただ、振り返ってみると、自覚してない、言語化できてないだけで、それをやっていたとは思っていて。いつも通り自分たちの歌いたいことを歌わなきゃいけないし、そうしたら大丈夫だと思ってたんですよ。強いて挙げるなら、こういうお話だし、船にちなんだ「舵を取れ」みたいなことを言えるな、と思ったのを覚えています。 ――ロックバンドがアニメのタイアップを歌うということは、当時は今に比べると少なかったですし、シーンの中での風当たりのようなものもあったと思います。そのあたりはどうでしょうか? 藤原:何を言われるんだろうな、どう思われるんだろうなってところで、一回うんざりしたのは覚えてますね。メジャーに行く時も結構いろいろ言われたんですよね。ライブのアンケートに「メジャーに行くんだね、変わるんだね」みたいなことを書かれたり。自分たちのマインドと全く関係ないところで、そういうふうに思うものなんだなっていうのを知って。戸惑うと同時に、俺たちは俺たちのやりたいことを貫こうっていう空気が、この段階からみんなの中にあったと思います。それは今までずっと続いてます。 ――ブレイクを経て、露出が大きくなっていくことで、自分たちの実像とイメージの齟齬みたいなものが広がっていくような感じもあったのではないかと思います。 藤原:そうですね。ツアーに行っても、ステージに立った時の客席から伝わってくる空気感が、やっぱり変わった感じはあったんで。そこで自分たちの守るべきものがはっきりと見えたような気がします。「ここでこれを見失っちゃいけないよね」みたいな感じというか、自分たちの本質を守るために、いろいろな面で必死だったと思います。 ――2004年には『ユグドラシル』がリリースされました。アルバムの制作時期を振り返ってどんな記憶がありますか? 藤原:この頃はさっき言った通り、ブルーグラスをたくさん聴いてたと思います。他に覚えているのは、Jackson Browneを聴いたり、Carole Kingも聴いてました。レコーディングは市ヶ谷にあった一口坂スタジオに通ってました。特に秀ちゃんは時間かかってたな。「オンリー ロンリー グローリー」で「鹿のように叩いてくれ」って言ったのを覚えてます。自分でも「わけわかんないこと言ってるな」と思ったんですけど、脳内のイメージを抽象的にでも伝えるしかなかったんです。理屈でできるようになるものでもなかったんで。鹿が跳ねるイメージっていう、そのバネ感を伝えたんです。そしたら次の“鹿テイク”が、めっちゃ良かった。そういうこともありましたね。 ――藤原さんの提示するアンサンブルを実現すべく、メンバーそれぞれ必死に練習したり研鑽したりしている時期だった、と。 藤原:そうですね。『FLAME VEIN』や『THE LIVING DEAD』の頃に、「これは今はまだできないだろうから」って諦めたことが結構あって。例えば6/8拍子は無理だろうなと思って諦めてたんだけど、何かのタイミングで秀ちゃんができるようになった。それで少し前に作ってあった曲を引っ張り出してきて、やってみたのが「天体観測」のカップリングの「バイバイサンキュー」だったんですね。そういうのをちょっとずつ解放していった感はありました。みんな全力で応えようとしてくれるんですよね。俺は信じて待ったし、彼らはそれに必死で応えてくれた。自分たちにとってはすごく大事なプロセスでした。
自分の存在意義が足元から揺らぐみたいな、生きた心地のしない9ヶ月間でした
――この時期に書いた曲で、特に記憶に強く残っているものは? 藤原:「ロストマン」ですね。この曲はトラウマです。トラウマランキングでも20数年連続1位みたいな感じですね。この曲自体は、YAMAHAのQYで打ち込んで遊んでたらできた曲で。TOY'S FACTORYのディレクターに「これめっちゃいいじゃん、歌詞は?」って言われたんですけれど、歌詞がなかったんで「とりあえずバンドでプリプロに入ろう」ということになって。シーケンサーで打ち込んだ音源をもとに、それぞれの楽器で演奏していくわけですよ。「じゃあ、これにラララで歌って」って言われて、「ラララは嫌なんだよな」って思いながらラララで歌って。「あとは歌詞だね。早く書いて」って言われたんだけど、そこからずっと書けなくて。で、わかったんです。ラララで、もう何らかの表現ができちゃってるんですよ。メロディだけで何らかの情緒が表現できるし、人の声でラララと歌ったら、楽器以上に表情もついちゃうから、肉声の温度感でそれが伝わってくるわけです。それを聞きながら歌詞を書こうとするんだけど、ラララで完成しているから、それ以上の表現がハマらない。他のあらゆる言葉が勝てなくなるというか、改めて表現するのが野暮になってしまう。これが嫌だったんだって気付いたんです。だけど書かなきゃいけないから、一応書いてみるんですよ。書き終わったら、ちゃんと立派に一曲になっているんです。でも、これはこれで成立してるけど、これじゃないってなるんです。ラララで歌ってた時のほうが、もっといろいろなものを内包できた、これはその中の一部を引き伸ばしただけにすぎない、って。そうなってから、何度もやり直して。1曲まるっと書いたものも何曲分かあったし、ワンコーラスとかAメロだけとか、書いては消してを繰り返して。9ヶ月ずっと、何も書けなかったんですよね。「ロストマン」の時は他の曲に目移りしちゃいけない気がして、他の曲も進まなかった。作詞家として一切結果を出せない状態で、自分の存在意義が足元から揺らぐみたいな、生きた心地のしない9ヶ月間でした。あれは地獄だったな。 ――その後には書けるようになりました? 藤原:多少マシにはなりました。9ヶ月、俺は本当に枯れたんだなと思って。この「ロストマン」の体験はそういう意味で本当に、心に強く突き刺さってますね。そういう曲もあれば、一方で「ギルド」とか「車輪の唄」はさらっと書けたんですよね。当時は「何月何日にバンドのプリプロのスタジオを押さえておくんで、そこまでに曲を書いてきてください」って言われて、その日に向けて曲を書くわけです。で、「レム」を書き上げて、「暗い曲できたな」と思って。「一応できました」「じゃあ明日それプリプロしましょう」みたいになって。すげえ暗くて申し訳ないなみたいな気持ちがあって。それで似たようなコード進行で、ちょっとそれをアッパーに弾いてみたんですよね。ミドルテンポで弾いてみたり、シンコペーションを入れながらパンクっぽく弾いてみたり、いろいろ試してみて。その時にストロークがピタッとはまって、「あ、もう一曲書けそう」みたいになって。なんとなく鼻歌で歌ったものがメロディになって、思い浮かんだ情景をそのまま言葉にしたら、「車輪の唄」が書けた。そういうこともありましたね。 ――「車輪の唄」や「同じドアをくぐれたら」では、マンドリンやブズーキも入ってますね。 藤原:いよいよ僕の個人的な趣味だったブルーグラスのサウンド感が、とうとうその楽器を買いに行くところまで行っちゃったんですよね。ブズーキは当時よくお世話になっていたリハーサルスタジオで買いました。そこは中古楽器も販売しているところで、謎にブズーキも売っていて。7万円ぐらいだったと思うんですけど、「これを使いたい」と即決で買いました。それをいまだにずっと使ってます。で、ブズーキを買ったら、ブズーキとマンドリンとバンジョーで一つの旋律をユニゾンするようなものをやりたくなって。それで御茶ノ水の楽器屋を探し回ってギブソンのフラットマンドリンを買いました。で、ブズーキとマンドリンとアコギとでアンサンブルを組んでみたら、思ってた以上に頭の中にあったものが再現できるんですね。それは毎回楽しかったです。チューニングも変わるんで、同じフレーズを弾くとしても、楽器によってポジショニングも変わってくるんですけど、うまくハマった運指が見つかったりするとすごい嬉しくて。毎回その場で新しいチャレンジをしていました。
「なんてくだらねえんだ」と思ってました
――他にはどんな試みがありましたか? 藤原:「乗車権」は変拍子が入ってるんですけれど、これはシーケンサーで打ち込んだものをヘッドホンごとリハスタに持っていって、一人ずつ聴いてもらいました。チャマが「フゥー!」って声を上げて、そこの変拍子のところで喜んでくれてるなって思って、そのリアクションがめちゃくちゃ嬉しかったです。あと、「fire sign」は一口坂スタジオの小部屋で空き時間に書けたので嬉しかったです。アイリッシュとかブルーグラスとかもそうなのですが、特に明確な理由やきっかけもなく、なぜかいつからかずっとゴスペルが好きで。「とっておきの唄」とか「ナイフ」とか「Ever lasting lie」とかにもその匂いがあるんだけど、「fire sign」はこの時点で一番それが出たんじゃないかな。で、この時はいろんな楽器を試してましたね。「オンリー ロンリー グローリー」で鉄琴を使ったり、他の曲でも木琴、ビブラフォンなど一口坂スタジオにある楽器を一通り演奏しました。オートハープなどわざわざ買ったものもあります。そんな中ですごく大きかったのがEBowの投入でしたね。エレキギターの音を持続的に出すことができるという画期的なアイテムで。それを使ってEBow多重奏みたいなことをやって、いわゆるシンセパッドみたいな効果を生み出したりしてました。「太陽」とか「レム」とか「同じドアをくぐれたら」の最後とかもそれですね。それからしばらくEBowは大活躍してます。 ――アルバム制作をしている中で、藤原さんとしても、手法レベルでも発想レベルでも、「BUMP OF CHICKENはもっといろんな音楽ができるバンドなんだ」みたいな考えがあったんじゃないかと思います。 藤原:なんでもやるべきだって思ってました。当時は僕らみたいなバンドが「ベル」とか「スノースマイル」とかみたいなバラードをやることを、良しとしない風潮もあったんです。でも自分たちは、バラードはバラード、アップテンポはアップテンポみたいにいちいち分けてなくて。『jupiter』『ユグドラシル』あたりは、自分たちのあり方を世間的に見て言葉に当てはめるのであればロックバンドなんでしょうけど、そういう物差しを当てられるのもクソめんどくせえって思ってた時期です。「ロックバンドはこれやっちゃいけない」みたいな風潮があって、「あれやっちゃダメ、これやっちゃダメ、こういう服を着てなきゃいけない、ギターは歪んでなきゃいけない」とか、そういう物差しをあてがわれることに「なんてくだらねえんだ」と思ってました。それよりも、やりたいことを追求すること、自分たちであり続けることの方がずっと大事じゃないですか。僕らは、こと音楽に関しては、ただただ自由でいたい。自分たちが必要だと思うことにはとことんこだわるし、「これはもしかしたら誤解されるかもしれない」みたいな扉があったとしても、積極的に開けていく。その一つが「スノースマイル」だったと思います。
どのくらい情熱がある人たちなのかがすごく大事
――2005年には『テイルズ オブ ジ アビス』のテーマソングとして「カルマ」がリリースされました。ゲーム制作側からテーマソングの依頼を受けての印象はどうでしたか? 藤原:まず、RPGのテーマソングの話をいただいたことが、とても嬉しかったです。RPGのテーマソングといえば、僕にとっては『FINAL FANTASY VIII』の「Eyes On Me」の印象がとても強くて。あの曲で泣いた人はたくさんいると思うんですけど、僕もその中の一人です。だから、まずは話をいただいて、そういう仕事ができるのがとても嬉しかったです。 ――ルーツが『ドラゴンクエスト』と『FINAL FANTASY』だという話は前回もうかがったので、原点にタッチする仕事っていう意味もありますよね。 藤原:そうですね。ただ、『テイルズ』シリーズは僕、一つもやったことがなかったんですよ。お話をいただいて、全く知らないシリーズに対して、ただ単にRPGの主題歌っていうことへの憧れだけでお話を受けるのは、あまりに失礼だなと思って。当時の最新作かその一つ前のものか、それをちゃんとやったんですよね。その上で、制作チームの方ともお会いして、どういうものを作ろうとしてるのかという話を伺いました。内容とかあらすじというより、どっちかというとマインドのほうです。今もそうなんですけれど、どのくらい情熱がある人たちなのかがすごく大事で。自分たちの作品にどれだけの誇りと情熱を持っている人たちなんだろう、そういう人たちが俺たちにどういう思いでオファーしてくれているんだろうというところがすごく大事で、そのあたりの話は入念に聞きました。 ――そこから「カルマ」を書いた。 藤原:打ち合わせで内容についても聞いたんですけど、正直よくわからなくて。でも、「生まれた意味を知る」ってことだよなって漠然と思ったんですよね。持って生まれた業について、ずっと「カルマ」っていう言葉が自分の中にあって。曲の中で歌ってる通りなんですけど、僕たちは誰でも、生きてる時点で場所を取ってるよねという。そういう単純な方程式が、生まれたその時からずっとあるわけですよね。あらゆる場面において。知らないうちに競争社会の中で生きていて、競争してるつもりがなくても、誰かから勝ち取っちゃっている。自分は悪くないみたいに思うこと自体がすごい危険なことだなって考えてた時があって。そういう、歌いたかったテーマを歌えばハマりそうだなと思って、「カルマ」はすぐ書けました。
「ラスボス戦の曲を書きたいです」って自分から言いました
――MOTOO FUJIWARA名義でサウンドトラックの『SONG FOR TALES OF THE ABYSS』もリリースされましたが、この経緯は? 藤原:「カルマ」ができて、ゲームの中で主題歌の「カルマ」をオルゴールアレンジにしたり、ストリングスアレンジみたいな感じにしてインストで流したりするのはアリですか?と言われて。そこも責任をとりたいと思って「僕がアレンジしちゃダメですか」って言ったのが始まりです。向こうとしては「そんなことまでお願いしていいの?」って感じだったらしいんですけれど、是非やらせてくださいということになって。で、やっているうちに「他のBGMもアリですか?」って自分から言ったんです。「じゃあ、ラスボス戦の曲を書きたいです」って。第三形態まであるって話だったから、3曲分書けばいいんだなと。で、このラスボスと戦う時に、オープニングの画面で流れてる曲と同じイントロが流れたら格好いいだろうなと思って、そこからオープニングも書かせてもらうことになった。最初は「だいたい平均何分ぐらいのバトルになると思うから、それぐらいで一回しの曲を書いてください」みたいに言われたんです。つまり平均5分だったら、その5分間のあいだは繰り返し無しのBGMという。でも僕としては考え方が逆で、同じBGMをその5分の中で繰り返したいと思ったんですね。繰り返し聴くことでそのメロディを覚えるし、そのメロディで戦いを思い出すじゃないですか。僕自身もプレイヤーとしてそうだったんですよ。竜王とのバトルのBGMも、デスピサロが第二形態になった時のBGMも覚えてる。繰り返し聴いてメロディを覚えてるからこそ思い出せるバトルの生々しさがあるんですよ。なので、打ち合わせでも、ちゃんと自信を持っていいメロディを書いて、それを繰り返して聴いてもらいたい、それを三形態ぶん作りたいと言って、納得していただいた記憶があります。 ――相当思い入れを持って臨んだわけですね。 藤原:「カルマ」を我が子に喩えるんであれば、せっかく我が子を送り出す時に、やっぱり、責任を取れる範囲でしっかりやらせていただきたいなと思って。僕では力が足りないというのであれば引き下がるしかないですけど、何かできることがあって、それを必要としてくださるのであれば、ぜひやらせていただきたいなという感じでした。 ――このサントラはBUMP OF CHICKENのキャリアの中でも少し特異な位置にありますよね。 藤原:あれも、TOY'S FACTORYの人から、あんなにしっかりやったんだからちゃんと出すべきだ、それも含めて責任なんじゃねえの、くらいの感じで言われて。俺はそういう風に自分を見せていくことは全然頭にもなかったし、ソロ名義というのも、恥ずかしいな、ぐらいにしか思ってなくて。でもたしかになと思って、出すことになったんですよね。そのおかげで、一部の曲を生のストリングスでやってもらえることになった。たしかストリングスを入れたのはそれが初めてだったんじゃないかな。それもめちゃくちゃ嬉しかったです。
看板の支え方、守り方を知った10年だった
――最後に訊かせてください。1996年から2006年までの10年間、特に『FLAME VEIN』以降は、BUMP OF CHICKENが音楽的にも、存在としても、いろんな可能性を手にしていった時期だったように思います。藤原さんにとっては、振り返ってどんな10年でしたか? 藤原:看板の支え方、守り方を知った10年とでも言うんでしょうかね。ここで固まったものが、その後の活動にずっと続いていると思います。誰に何と言われようと、やりたいと思ったことはやる。やらなきゃいけないと思ったことも勇気を出してやる。やりたくないことはやらない。言葉に直すと簡単ですけど、振り返ると簡単ではない事もありました。2000年に『THE LIVING DEAD』が出てて、2004年に『ユグドラシル』が出て。この4年間で、バンドを取り巻く状況、環境、景色がめちゃくちゃ変わって。たぶん、ここで何かを間違ってたら、バラバラに砕け散ってたかもしれないですね。『FLAME VEIN』が出るまでも必死だったんですけど、それはある意味、無邪気な必死さだったというか、モラトリアムなものだったという感じで。それとは全く別の、社会に出て、生きていくことのリアルと密接に結びついている必死さがあった10年だと思います。看板は4人で支えているものでもあるし。でもその4人は別個の心臓で生きていて、別個の脳みそで考え、別個の心で感じていて。その4人でその1個の看板を抱えて社会に出てみたら、急激に景色が変わっていく。そんな中で、BUMP OF CHICKENがBUMP OF CHICKENであり続けるために、俺たちが俺たちとして居続けるためには、どうあるべきか。そういうところを試されたような気がします。そこで何か間違ってたら、たぶんバンドは続いてなかっただろうなという気がしますね。
取材・文 / 柴那典