「BUMP OF CHICKEN HISTORY #2」直井由文インタビュー
2026.08.28
「早く音楽だけでご飯が食べられたらいいよね」って合言葉のように言ってました
――前回の取材では1999年に『FLAME VEIN』がリリースされるまでのお話を伺いました。その後のチャマさんの状況にはどんな変化がありました? 直井:『FLAME VEIN』が出たあたりは、僕が東京に出てきて、藤原くんと同居していた頃ですね。 ――上京して藤原さんと一緒に住むようになったきっかけは? 直井:僕は「調理師免許と大検と運転免許の3つをとったら東京に出ていい」という親との約束があったので、それをやり終えて。藤原くんは先に東京に出ていて、僕も東京に出るつもりだというのはメンバーにも言っていたんですけれど、でも一人で家賃を払えるような部屋はなかったので、藤原くんに一緒に住もうと誘いました。引っ越す時に両親が車を出してくれて。それから僕はコンビニでバイトを始めて。藤原くんは日雇いのバイトをしていて。そんな日々の中で『FLAME VEIN』が出て。その時、僕は藤原くんに「早く音楽だけでご飯が食べられたらいいよね」ということを合言葉のように言っていた思い出があります。音楽だけで生活できるようになりたい、音楽しかやりたくない、みたいな気持ちだったのを覚えてます。 ――バイトはコンビニだったんですね。 直井:そうですね。当時は初台に住んでいたんですけれど、その近所のスリーエフというコンビニで働いてました。家族経営だったんですけど、店長もみんなもすごく優しくて。毎日楽しいバイト生活でした。 ――その頃からライブでも少しずつ黒字が出るようになっていったんじゃないかと思います。 直井:そうですね。その頃は升くんが全部経理を担当してくれて。バンドで得た収益は次のライブの準備に充てたり、バンドに還元するようにしていたんです。それでも黒字が出た場合、お小遣いみたいな感じで4人で分けていて。それが出た時の喜びは半端なかったですね。その頃、ライブのリハーサルは千葉組と東京組の間をとって巣鴨あたりでやっていて。リハが終わったら4人でよく巣鴨のジョナサンに行って、飯食って、だべってたのを覚えています。その食事代もバンド費から出してたんじゃないかな。
決して迎合しない、屈服しない、みたいな感じでした
――『FLAME VEIN』が出た後くらいから、マネジメントやレコード会社のスタッフなど、いろんな出会いがあったと思います。チャマさんから振り返って、大きかったものは? 直井:この間のインタビューでも話させていただいた女性スタッフはまず大きかったです。彼女に出会ったことで東京に出てこれたと言っても過言ではなかったし、そこからヒップランドやブリッジの人たちと出会って、いろんなことを教えていただいた。それに、今考えるとすごいことだと思うんですけれど、いろんなレコード会社の人がライブに来てくれていたんです。でも、4人ともすごく尖ってたので、心を完全に閉ざしてました。そういう人たちからあえて遠ざかってたというか。決して迎合しない、屈服しない、みたいな感じでした。特に升くんはそのマインドが強かったですね。 ――対バン相手など、いろんなバンドとの出会いについてはどうでしょう? 直井:syrup16gを初めて下北沢SHELTERで見た時は、「めちゃくちゃかっこいい」ってびっくりしたのを覚えています。ハックルベリーフィンとかBURGER NUDSとはよく対バンしてました。 ――活動の中心が下北沢になっていったわけですよね。 直井:そうですね。その時期は藤原くんと一緒に住んでるだけじゃなくて、バイト先もスペースシャワーTVの運営する「スペースシャワーブランチ」という下北沢のカフェで一緒だったんです。藤原くんがバリスタ兼ウェイターで、僕は調理で、オープニングから働いていて。僕ら2人はバイトだから何の権限もないんですけど、ああいう事業の立ち上げみたいなことを藤原くんと体験できたのもいい思い出ですね。疲れすぎてオープン前の店内で寝たりしてました。そこではスペースシャワーTVが常に流れていて。で、自分たちの「ランプ」をパワープッシュに選んでいただいたんで、そのMVを見ながら働いてるようなこともありました。そのカフェと同じビルにハイラインレコーズがあって、そこでインストアライブをやらせていただいたこともありましたね。 ――当時の下北沢の音楽シーンからの影響はありましたか? 直井:下北というカルチャーのど真ん中にいると、逆に何も感じなくて。近すぎて何も見えないんですよ。自分たちを俯瞰で見れないというか。もちろん、今思えばめちゃくちゃ影響を受けていたと思います。だってそこにいたわけだから。ただ、他のバンドがどれだけ格好よくても、僕らは僕らだという考えが4人ともすごく強かった。そこが良かったところなのかなと思います。同じカルチャーの中にいる人たちから影響を吸収しようっていう概念がなかったんです。
Dinosaur Jr.が大好きで、「Mick」みたいな曲が作りたかった
――2000年には『THE LIVING DEAD』がリリースされました。藤原さんが曲を作りながらレコーディングを進めていったそうですが、制作を振り返って、どんな思い出がありますか? 直井:藤原くんが弾き語りで、僕らにスタジオでコードとメロディとアレンジをワンコーラス伝えてくれて、それを僕と升くんと増川くんで演奏して。で、藤原くんに「ここはこうして」って言われて、またアレンジし直すという感じで。「グングニル」にもびっくりしました。ワンコーラスを聴いて、比較的わかりやすい進行だな、エモくて疾走感のある曲だなと思ってたんですけれど、2Aになってコード進行の尺が倍になるんです。そこにメロディをラップみたいに乗せていく。そんなアイデア誰も思いつかないし、「お前ラッパーかよ、すげぇな」って言ったのは覚えてます。 ――『THE LIVING DEAD』では「ベストピクチャー」を作曲されていますが、これはどういう由来だったんですか? 直井:これは、このインタビューだからはっきり言うんですけど、Dinosaur Jr.が大好きで。「Mick」という曲があるんですけど、そういう曲が作りたかった。だからコード進行もすごい似てるんです。当時一緒に住んでた時に藤原くんにギターとかコード進行を教わったりしてたんで、藤原くんのギターを借りて弾き語りっぽく作ったのが「ベストピクチャー」で。「これをBUMP OF CHICKENでやりたい」って言ったら、「全然いいじゃん」みたいな感じで。「じゃあ藤原くん、歌詞書いて」って言ったら、「それはお前がやれよ」って言われて。で、歌詞を書いて。藤原くんにそれを見てもらって「もっとここはこういう方がいいんじゃないの」みたいに直してもらって。一緒に住んでたからできたのかなっていう感じはありますね。 ――『THE LIVING DEAD』で思い入れの強い曲は? 直井:ひとつの曲というより、あの時期に一気に録ったのが僕はめちゃくちゃ楽しかったんですよね。「リリィ」も「グロリアスレボリューション」も、だからこそ出たグルーヴがあったというか、即興感がよかったというか。藤原くんはキツかっただろうけど、受け止める側は楽しかったです。好き勝手に、瞬発力だけでやってたから。音楽理論とかも考えなかったし、何も考えずにやる最後の制作だったかもしれない。やっぱり、曲を届ける以上、いつもその曲の方向性を考えるんですよ。こういうアレンジにしたらこういう風に聴かれるだろうとか、こうすると誰も興味を持ってくれないだろう、とか。でも、このアルバムまではそういうことを一切考えてなかった。俺ら格好いいよね、だから好きなことをやればいいよねという。この時はDinosaur Jr.とかeastern youthとか、好きなアーティストに色濃く影響を受けたベースラインになっていたと思います。
「いつか絶対俺らで『ファイナルファンタジー』の楽曲をやろうね」って
――この頃は藤原さんとの同居生活はどんな感じでしたか? 直井:スペースシャワーブランチで働き始める前までは、僕がコンビニバイトで夜型で、藤原くんは日雇いとか派遣のバイトだったのでいろんなところに行って、昼夜逆転当たり前みたいな感じの生活で。僕が寝てる時に藤原くんがギターを弾いて曲を作ったりしてました。ブランチに入ってからは僕が朝型で、藤原くんが夜勤になったから、一緒にいる時間はそんなに多くなかったです。でも、家に2人で居る時はよく一緒にゲームをしてましたね。『ストリートファイターZERO』で初めて共闘プレイができるようになったんで、僕らがリュウとケンでひたすらコンピュータのベガと闘い続けたり。それが本当に楽しかったです。『ファイナルファンタジーVIII』もやってましたね。お互いに働いてる時間が違うから、2個のセーブデータがあって、それぞれがゲームを進めて。それで「あそこまで行った」とか「あそこめっちゃ良くなかった?」みたいな話をするんです。で、休みが一緒の日に、僕がクリアするところまで行って。藤原くんはクリア手前だったから「じゃあ、お前がクリアするの、俺見るわ」って言って。一緒にクリアして、めっちゃ泣いたのを覚えてます。『ファイナルファンタジーVIII』って、シリーズで初めて「Eyes On Me」という主題歌があったんです。藤原くんに、「いつか、絶対俺らで『ファイナルファンタジー』の楽曲をやろうね」って言ったのも覚えてます。
自分の部屋にあったiMacで「天体観測」のジャケットを作った
――2000年には「ダイヤモンド」でメジャーデビューしますが、そこに関しては、チャマさんはどう捉えていましたか? 直井:「メジャーデビューするんだ」っていう感じは全くなかったですね。TOY'S FACTORYの人たちといっしょにやりたかったからTOY'S FACTORYに入ったというだけで。それより大きかったのは、一人暮らしを始めたことで。 ――藤原さんとの同居はこの頃に終わった、と。 直井:そうです。メジャーデビューするタイミングで僕も藤原くんも一人暮らしを始めるんですね。でも、別に生活は変わんなかったです。音楽で食えるようになったんだけど、別にめちゃめちゃ売れてるわけじゃなかったから、僕は相変わらず四畳半のボロアパートに住んでいて。シャワーだけある砂壁みたいな感じの部屋でした。唯一変わったのは、バイトしなくて良くなったことですね。バイトを辞めて音楽に集中できたから、家でベースの練習もしながら、今までバイトしていた時間でゲームもできるしアニメも観れるんですよ。近くのレンタルビデオ屋さんに毎日行って、今まで見れなかったOVA系を全部借りてテレビデオで観たりしてました。こないだ写真を整理してたらその頃に住んでた部屋の様子がわかる写真が残ってたんですけど、その頃は貧乏だったのに、PlayStation 2、ドリームキャスト、NINTENDO 64のピカチュウバージョンがあって。CDコンポがあって、壁には『フリクリ』のポスターがあって、『殺し屋1』とか『なるたる』とかいろんな漫画があって。そういう部屋でした。そこにライブ終わりにみんなが遊びに来て、みんなで『桃太郎電鉄』をやったりしてました。当時升くんは大学に通ってちゃんと授業を受けてたんで、ライブ終わりに終電がないとウチに泊まって、そこから大学に行ってました。その頃、僕の隣の部屋にはご高齢の方が住んでいて、そこが24時間ずっと大音量でテレビとラジオを同時につけてるようなところで。だから「すごいうるさいよ、寝れないよ」「大丈夫」なんて言って。ベッドなんてあるわけないんで、小さい布団で2人で寝たりしてました。 ――2001年には「天体観測」がリリースされました。曲が出来た時を振り返って、どんな記憶がありますか? 直井:「ダイヤモンド」の時にこれは僕らの集大成の曲だなって思って。「ダイヤモンド」は、デビューにして俺らの全てをそこに置いてきちゃったよね、ここから先は未知だよね、みたいな感じというか。そこから藤原くんがなかなか歌詞を書けなかった思い出があって。「天体観測」の歌詞もすごく苦労してましたね。箱根に行ったり、いろいろ環境を変化させて、でも結局書けないで帰ってきたりして。だから、僕らの待ちの時間はめちゃくちゃ多かったんですよ。そういう時にも自分はいろいろインプットして、リファレンスをいっぱい持つようにはしてました。「天体観測」のデモを藤原くんがスタジオで聴かせてくれた時は、いつも通り「すげえいいな」という感じでした。ベースもルートを奏でるだけじゃなくてメロディアスに動いてたら格好いいよね、みたいな感じで進めていったのは覚えてます。で、さっき言った部屋にあったiMacで「天体観測」のジャケットを作ったんです。 ――どういう経緯でそれを作るようになったんですか? 直井:遡って『FLAME VEIN』の頃から、フライヤーは僕と升くんが担当だったんです。升くんが大会でゲットしたMacでお客さんのデータを管理して、ハガキに印刷して切手を貼って送ってたんですよ。僕も絵を描いたりするのが好きだから、フライヤーを手書きで描いたり、自分たちのグッズを作るようになって。その流れで、発売されたばかりのiMacを全財産はたいて買ったんです。Photoshop、Illustratorと、ワコムのペンタブレットを買って、MOにデータを保存して。スペースシャワーTVのホームページで連載をやらせてもらったりもして。データもめちゃめちゃ小さいし、ピクセルもデカかったんですけれど、デジタルアートがすごく楽しくなっていた頃ですね。で、当時住んでた初台の景色をMacで描いてたんですよ。うちにメンバーとプロデューサーが来て会議してる時に「俺、Macでこういうのを描いてるよ」みたいにそれを見せたら「その景色、いいじゃん」ってなって。それが「天体観測」のジャケットの裏に描いてある景色なんです。「これどういう風になってるの?」って言われて、レイヤーを見せていって。空のレイヤーだけを選択して、それ以外がグレーで表示されるのを見て「あ、それいい!」ってなったのがあのジャケットですね。
「ベンチとコーヒー」は、僕の誕生祝いとして藤原くんが書いてくれた
――2002年には『jupiter』がリリースされました。このアルバムを作っていた時にはどんな思い出がありますか? 直井:『jupiter』の時には、メジャーなスタジオで録れるようになって。そこまで自分の車で行ったのを覚えていますね。その頃、初めて車を買ったんです。ジープ・チェロキーっていう、『グーニーズ』に出てくるギャングたちが乗ってる車がすごく可愛くて「初めての車は絶対あれにするぞ」って決めて、中古で安く買いました。「ベンチとコーヒー」は、僕の誕生祝いとして藤原くんが書いてくれた曲で。「ハルジオン」の頃まで、リハーサルは巣鴨あたりでやっていたんです。そのスタジオが地下にあって、階段を登って待ってる時に、藤原くんが後から来て「これお前にプレゼント」って言って歌詞をもらった記憶があります。曲より先に歌詞を読んだのはその時が初めてで。「めっちゃいい!」って思って「どんな曲なの?」って言ったのも覚えてます。 ――2003年には「sailing day」がリリースされました。映画『ワンピース THE MOVIE デッドエンドの冒険』の主題歌でしたが、話を受けての第一印象はどうでしたか? 直井:『ONE PIECE』は4人とも大好きだったんで、嬉しすぎて死ぬかと思いました。「sailing day」を藤原くんが作って聴いた時は、もうぴったりだな、と。めちゃくちゃ合うな、格好いい曲だなと思って、全力でやらせていただいて。この時に、ジャンプで尾田栄一郎先生との対談をやることになって、お会いしてめちゃくちゃ緊張しながらお話をさせていただいたんです。で、その時に「いつかライブを観に来てください」みたいなことを言ったんですよ。そうしたら『aurora ark』のツアーの東京ドームに来てくださって。僕らも知らなかったんで、後から「尾田先生来てたらしいよ」「え?」みたいに知ったんです。もう10年以上も経ってるんですよ。で、何週か後のジャンプの巻末に「チャマ君、約束守ったよ」って書いてあって。「うわー!」ってなったのを覚えてます。この時に「sailing day」でご一緒できたことがいまだに自慢ですし、めちゃくちゃ感謝してます。 ――2004年に『ユグドラシル』がリリースされました。アルバムに至る時期を振り返って、どんな記憶がありますか? 直井:「スノースマイル」でエンジニアの牧野(“Q”英司)さんに出会えたのが、すごく大きかったです。「スノースマイル」は、BUMP OF CHICKENとしては珍しい、ポップなスローバラードで。それまでのような勢いメインの演奏が通じない楽曲だったんですよね。僕は自分がこういうタイプの楽曲を弾くとは思ってなかったので、スキルが足りなくて。音符も読めなかったですし、なんでこのコードでこの旋律を弾くと音が当たっているように聴こえるのかもわからなかったし。 ――牧野さんにいろんな音楽的なことを教えてもらった、と。 直井:藤原くんが元から感覚的にも音楽的にも厳しい人だったからよく指摘してくれたおかげで、ある程度の土台はもちろん僕にもあったんですけど。ポップスをやるにはそれだけじゃ全然足りなくて。牧野さんと初めて一緒にやった時に「チャマ、それは当たってて気持ち悪いから嫌だな」とはっきり言われて「うわ、すげえ!」って思って。「じゃあどこだったら気持ちいいですか?」「ここは気持ちいいね」みたいな。「スノースマイル」はポール・マッカートニーへのリスペクトでベースラインを作っていたんですけれど、そういうリファレンスのCDを持っていったら、使っている楽器を教えてくださったりして。ベースラインとか音作りに迷ってる時には相談に乗ってもらってました。「車輪の唄」もカントリーとかブルーグラスのランニングベース的なベースラインなんですけど、それまでやったことなかったから、どの音に行けば綺麗になるのかわからなくて。藤原くんと牧野さんにいろいろアドバイスもらいました。牧野さんに出会えてから自分の中の音楽の価値観が一気に変わりましたね。人生の中ではかなりデカい出会いでした。 ――2005年には『テイルズ オブ ジ アビス』のテーマソングとして「カルマ」がリリースされました。お話を受けてのチャマさんの印象はどうでしたか? 直井:テイルズのシリーズは、メンバーの中では一番やってたと思います。僕は「自分たちの曲にアニメの絵がついたらどれだけ嬉しいだろうか」みたいなことをずっと考えていて。自分たちの楽曲にアニメがつくんだって考えただけで、めちゃくちゃ嬉しかったのを覚えてます。で、藤原くんがゲームのBGMまで作ることになって。僕も彼が制作したものを聴かせてもらって。全部完コピしてました。「ベース、いつでも行けるよ」みたいな感じで。めちゃくちゃ貴重な体験でした。『テイルズ オブ ジ アビス』の劇伴はめちゃくちゃ格好いいし、MOTOO FUJIWARA名義で世に出た唯一のソロ作品なので。知らなかった方にもぜひ聴いていただきたいですね。
ゲーム、アニメ、マンガ、アート、洋服……好きなカルチャーは今も昔も何も変わってない
――メジャーデビュー後、2001年から2005年くらいのチャマさんがハマってたカルチャーについての話も聞かせてください。当時、どんなものに夢中になってましたか? 直井:当時、僕は中目黒に引っ越したんですよ。その頃の中目黒がめちゃくちゃ熱くて。グラフィティやストリートアートが世界中から集まってたんです。FUTURAとか、DELTAとか、KAWSとか、いろんな人たちが来日していて。ギャラリーにもSTASHとかBanksyの作品があって。KAMIのグラフィティとか、すごく貴重なものをリアルタイムで見ていて。そういうレジェンドたちが中目黒に来てくれてたのを体験できてたのはよかったなと思います。ゲーム機を買ったり漫画本を買ったり、ファッションも大好きでしたね。 ――ファッションもアニメやゲームと同じ熱量で好きだった。 直井:好きでしたね。当時のUNDERCOVERは「CHAOTIC DISCORD」期で、SK8THINGさんのグラフィックを見て「なんだこれは!」って思ったりしてました。影響も受けたと思います。Supremeも人気で買えなくて並んでましたし。NEIGHBORHOODとかA BATHING APEもそうでしたよね。千葉に住んでた頃はまだNOWHEREの時代だったんで。JONIOさんとNIGOさんのショップに行って、でも何もないっていうのを何回も体験して。Supreme、NOWHERE、goro'sって、代官山から原宿まで行きたい店をぐるっと回ってました。 ――アニメやマンガだけでなく、アートやファッションにものめり込んでたんですね。 直井:そうですね。アニメもそうだし、ファッションもアートもそうなんですけど、自分は何か夢中になったものに対して、値段よりもそれを手に入れることを優先してしまうところがあって。そういう大切なものって、巡り巡っていろんなものが繋がったりするから、自分にとってはお金じゃ買えないものだったりするんです。ゲーム、アニメ、マンガ、アート、洋服……好きなカルチャーは今も昔も何も変わってないですね。自分の実家の部屋の写真を見ても全く同じだし。あえて言えば、自分が当時持ってたものが古着になったぐらいです。あとは、やっぱり当時一番センセーショナルだったのがオンラインですね。iMacの時はインターネットで済んでたけど、PlayStation 2で『ファイナルファンタジーXI』が始まって、初めてオンラインゲームをやったんです。もう死ぬかと思いました。キーボードも買って、ずっとオンラインの中にいました。いろんなゲームをやりましたけれど、たぶん『ファイナルファンタジーXI』の世界には一番長くいたと思います。
一つ一つの扉を、めちゃくちゃ丁寧に開けてきた
――最後に聞かせてください。2000年のメジャーデビューから2006年に結成10周年を迎えるまでは、BUMP OF CHICKENというバンドにとってどういう期間でしたか? 直井:一つ一つの扉をめちゃくちゃ丁寧に開けた日々だったと思います。全部の扉のノブを触るところから警戒するし、一度触ったら100メートル下がって2週間様子を見たりするんですよ。石橋を叩きすぎて逆に壊れるんじゃないかってくらい、すべてを慎重にやってきた期間だった。そこで僕らにとって良かったなと思うことは、リスナーとの深い絆ができたことですね。すごく丁寧に、慎重に、注意深く進んできたと思います。言ってしまえば、スキップできたこともあったと思うんです。僕らはあえて遠回りをしてきた。でもそうしなかったらBUMP OF CHICKENはなかった気がする。すごく面倒くさいバンドですよね。でも、それが正しいか間違っているかとかではなくて、BUMP OF CHICKENにとってすごく大事な期間だったと思います。
取材・文 / 柴那典