「BUMP OF CHICKEN HISTORY #2」升秀夫インタビュー
2026.08.28
それまでの自分たちはモノを知らなすぎた
――1999年3月に1stアルバム『FLAME VEIN』がリリースされました。その頃のバンドの状況についてはどんな風に感じていましたか? 升:ライブがすごく多い時期でしたね。チャートに絡むわけじゃないのでCDのセールスがどれくらいかはわからないですけど、動員は着実に増えてきてました。特に千葉のライブハウスだと前列にいるのは友達や知り合いが多かったんですけど、だんだん知らない人が増えてきて。当時の自分たちよりちょっと上、20代後半ぐらいの人が多くなった感じがありました。対バンのライブで他のバンドを観ていた人たちが、自分たちのライブを観に来てくれるようになったんだと思います。 ――徐々にバンドの存在が広がっていった。 升:「ランプ」がSPACE SHOWER TVでパワープッシュになってガンガン流れてたので、そういう影響もあったのかな。前回のインタビューで「毎回ライブの時にアンケートを配って、そこに住所書いてもらって、次のライブの告知を送ってた」という話をしたんですけれど、その数がめちゃくちゃ増えていった時期ですね。そういう自分たちでやってきた地道なプロモーション活動がしっかりと実を結んできたんだと思います。で、だんだん「もう自分たちでやらなくていいんじゃない?」ってなってきた。大阪とか福岡とか、地方でライブをするようになったのもこの頃ですね。もちろんその頃はまだ俺らのことを知っている人はほとんどいなかったんですけれど、それでも少しはいることにびっくりしました。 ――当時の下北沢のギターロックシーンで頭角を現していく時期だったと思うんですが、そのあたりの実感はどうでした? 升:当時は、サウンドやファッションも含めて、UKロックに影響を受けた人が多かったような気がします。対バンのブッキングもそういう人たちが多かった感じですね。ただ、自分たちがその中にカテゴライズされていることについては、あんまりどうこう考えていなくて。当時はメロコアも流行ってたはずだけど、あんまりゴリゴリのパンクの人たちとやった記憶はないかな。 ――この頃、升さんは大学生だったと思います。その時の将来像はどんな感じでしたか? 升:1999年は大学2年目ですね。大学には運良く滑り込めたので、ちゃんと卒業を目指しつつ、とりあえず4年間は好きにバンドもできるだろうという感じでした。ありがたいことに、メンバーにもスタッフにも、学校の融通は利かせてもらっていたので。その時考えていたのはそれくらいでした。 ――升さんにとっては、そこからバンドとの向き合い方のターニングポイントになったのはいつぐらいでしたか? 升:やっぱり、TOY'S FACTORYと契約した時ですかね。ちゃんとレコード会社と契約して「これでいける」っていう感じでした。 ――1999年から2000年にかけては、いろんな出会いがあったと思います。振り返って、誰とのどんな出会いが大きかったと思いますか? 升:いっぱいありすぎて一人に絞れないですけど……それまでの自分たちはモノを知らなすぎたというのがあって。特に自分は単純にドラマーとしてどういうプレイをすればいいのかを全然知らなかったんですね。でも、前回のインタビューでも話した女性のスタッフに出会って、そこから「今日の演奏はイマイチだったからセッティング見直してみよう」とアドバイスしてもらったり。他にも、いろんな人にいろいろなことを教わった時期でしたね。 ――たとえばどんな方に? 升:ハックルベリーフィンは何回か対バンも一緒にしていたし、めちゃくちゃ上手かったんで、「あれ、どうやってんの?」って聞いたりしてました。その時はまだ拾ったドラムセットを使っていたんですけど、ペダルは自分で買ったものを使っていて。「調子悪いんだよね」って言ったら、ハックルベリーフィンのドラムのハジ(ヤマグチユキヒコ)くんが「いらないのあるから、このペダル使っていいよ」って言ってくれたり。いろいろ周りに助けてもらってた感じですね。音楽に関しても、高校生の時は友達が教えてくれてたけど、スタッフたちは世代も上だし音楽に詳しいので、昔の曲を教えてくれて。同世代のバンドでも、たとえばBURGER NUDSに海外のインディーズのバンドを教えてもらったり。その時は全然ピンとこなかったけど、その20年後くらいにAmerican Footballを聴いた時に「そういえば、これ、あの時にBURGER NUDSが教えてくれたやつだ」って思ったりしました。ライブの打ち上げとかには出るタイプでは全然なかったんですけど、そういうちょっとしたつながりでも、いろいろ広がりが生まれてきた頃で。そういう意味でも、世界が広がっていく感じはありました。
原始人みたいに、ひとつひとつグルーヴを発見していった
――2000年3月には『THE LIVING DEAD』がリリースされました。当時のインタビューでもかなり制作期間が短かったということを言っていましたが、どんな記憶が残っていますか? 升:『FLAME VEIN』の次のアルバムを作ろうとなって、スケジュールが押さえてあって。でも曲がない、曲があっても歌詞がまだない、という状態で始まったレコーディングでした。1週間くらいでいろんな曲を並行してバーッと録っていったんで、最初に「グングニル」を録ったことくらいしか記憶がないんですよね。ずっとスタジオにいて、誰かが何かをやっていて、寝てる時もある。そういう感じで進めてましたね。ミックス作業を待ちながらテレビを観たりゲームをやったりする時間とかもあったんですけど。 ――アルバムを振り返って、升さんとして思い入れの強い曲は? 升:そういう作り方だったんで、どういう経緯で作っていったか思い出せる曲は少ないんですけど、「リリィ」に関しては、スタジオで何回かリハーサルして、アレンジをみんなでセッション的に作っていった記憶があります。誰かの発案で「四つ打ちにしようぜ」って言ってやり始めて、何かの拍子に裏打ちを入れたら「これ、すごく気持ちいいな」って気付いて。ほんとに原始人みたいに、ひとつひとつグルーヴを発見していった感じだと思うんですけれど。それが俺にとっては、プレイするほうでの四つ打ちの原体験だった。その感じが、その後の「天体観測」につながっていったというのはありますね。 ――この時期は、ソングライターとしての藤原さんの手札、メンバーの演奏の幅、音楽的な方法論が少しずつ増えていく時期であったと。 升:そうですね。だからリズムやグルーヴ的には、初期はGreen Day直系のシンコペーションの効いたエイトビートがまずあって。「くだらない唄」とか「ナイフ」でUKロック的な16ビートが加わり、「リリィ」で四つ打ちという持ち札が増えたという感じで。その発展形に「天体観測」がある感じがします。当時はできもしないのに、いろいろ新しいことをやってましたね。いろいろ教えてもらって、知識とか情報が増えていく中で「これ、やってみよう」みたいなのがまず先にあって。「Ever lasting lie」は、使ったこともないのにブラシでやってみたり、手で叩く人もいるらしい、みたいなのをビデオで見てやってみたり。いろんなことを試してました。
4人揃ってその場が楽しいから全然オッケー
――このあたりから雑誌の取材やラジオの出演も増えていきましたが、このあたりはどんな感じでしたか? 升:当時は、なんでそれをやってるのかよくわからずにやってた感じですね。プロモーション全般の意義がわかっていなくて。「やって」と言われて、とりあえず4人揃ってその場が楽しいから全然オッケーみたいな感じで。柴さんの古巣の『ROCKIN'ON JAPAN』に初登場した時も、そういう感じだったと思います。 ――当時は新入社員だったんですけど、ハッキリ覚えてます。オフィスに入ってきた瞬間から帰るまで、ずっとハイテンションだった。 升:爪痕を残したかったんでしょうね。お互いマウントを取り合うというか、「俺のほうがこんなことをしてやった」みたいな感じで、いろいろやってましたね。ラジオもずっとクロストークで、「俺が!俺が!」っていう感じだったと思います。 ――「ツアーポキール」もありましたが、ツアーの体験ってどういうものでしたか? 升:当時は泊まるのも4人部屋だったんですよね。だから、ああいうテンションのまま、前日も遅くまで起きていろんなバカ話をしたり、誰かが風呂入ってる時に誰かがいたずらを仕掛けたり、そんな感じでした。 ――メジャーデビューは、どんな経緯で決まっていったんでしょうか。 升:レコード会社と契約しようっていう話があって、その中でいろいろな縁があって。「この人たちとやりたい」というのでTOY'S FACTORYになったんですね。TOY'S FACTORYのスタッフもいっぱいライブに来てくれていて、『THE LIVING DEAD』のレコーディングも見に来てくれたりとかもあったから。とにかくこの人たちと仕事がしたいというので、TOY'S FACTORYと契約することになりました。 ――メジャーデビューが決まって、どんな反響がありました? 升:やっぱり、インディーズのBUMP OF CHICKENっていうところで見てた人も少なからずいたわけで。スタンスは全然変わんないのになっていうのを自分たちでは思ってました。実際、メジャーになるぞっていっても、流通が変わるだけで、そんなに変わらなかったんですよね。自分たちはあくまで、本当に聴いてほしい人に音楽を届けたいだけであって。だから「そんなに言うことかな」っていうのはありました。その反動というか「だからなんだよ」みたいな気持ちで。
自分の楽器で鳴らしたい音が鳴らせた
――「ダイヤモンド」や「天体観測」、『jupiter』の制作時期、升さんとしてはどんなことを考え、どんなことを思っていた記憶がありますか? 升:『THE LIVING DEAD』の時は圧倒的に時間がなかったので。メジャーになって、ようやく自分のドラムセットを手に入れたのもあって、「出したい音を作るぞ」というやる気に満ちていて。結果、音作りに時間かかりすぎる、みたいな時期でしたね。 ――このタイミングで自分のドラムセットを手に入れたんですね。 升:そうなんです。ようやく拾ったスネアじゃなくて自分で買ったやつを使うようになったんですよ。で、「ダイヤモンド」は「こういう音出したかったんだ」っていうことができて、満足感がありましたね。ただ、その頃は経験も全然ないし、ただただ、時間がかかってました。ドラムの音は楽器だけで決まるものじゃなくて。一番大きいのはやっぱり叩き手の技量だし、エンジニアさんとのコンセンサスをしっかりとって音を作っていくことも必要なんですけれど、そういうところが全くわかってなかったので。 ――ちなみに、ドラムセットを買うにあたって、メーカーとか色のこだわりはありました? 升:最初は自分の性格もあって「誰も持ってないようなやつがいい」みたいな逆張りの発想で選んでいて。「ダイヤモンド」で買ったのがファイヴスというメーカーのスネアだったんですけど、そこから巡り巡って、カノウプスになりました。カノウプスは、クハラカズユキさんとか、アヒト・イナザワさんとか、自分が好きな日本のバンドのドラマーがこぞって使っていて。お店に行って叩いてみたら、すごく良かったんです。でも、いろんな人が使ってるドラムセットだったから、すでに他の人が使ってる色はカブっちゃうなって思って。「あんまり使われてない色ってどれですか?」って聞いて、グリーンスパークルにしました。ツアーごとに色を変えようと思ったときもあったんですけれど、結果、自分のアイデンティティの色になりましたね。 ――「天体観測」についてはどうでしょう? 制作やリリース後の反響を振り返って、どんな記憶がありますか。 升:デモの段階でも「これは素晴らしい曲だ」と思って大事に作っていって。スタッフがすごく盛り上がって、気合いが入ってる感じはありました。ただ、すぐにバーンってヒットしたというより、じわじわ売れていったんですよね。ヒットチャートで1位になったとかじゃないけど、例えばふらっと入ったコンビニで曲が流れてたりして、「ちゃんとヒットしてるんだな」っていう体感はありましたね。 ――2002年2月には『jupiter』がリリースされました。アルバムを振り返って、升さんの個人的な思い入れがある曲、当時の光景が思い浮かぶ曲は? 升:やっぱり「ダイヤモンド」ですね。さっき言った自分の楽器で鳴らしたい音が鳴らせたっていう喜びもあったし、こんな風にエンジニアさんとコミュニケーションをとって一緒に作れるんだなというのがわかったという。そういう意味では、それまでの作り方とは変わってきましたね。 ――バンドがブレイクしたことによる環境の変化については、どんな風に感じてましたか? 升:ライブよりも、例えばラジオの公開収録で写真を撮られたり、そんなところから感じるものはありましたね。いわゆるプロモーションとか、ライブとレコーディング以外のいろんなことがだんだん増えてきて、それが自分にとってどういう意味を成すのかいまいち把握できないまま、そういう仕事をしてた気がします。周りの環境は全く違うんだけど、自分たちの精神性自体は全く変わっていないっていう。そこのギャップで混乱してた部分もあったような気がしますね。
卒業式の日にトイレで寝落ちして、気付いたら真っ暗でした
――升さんの大学卒業が2002年3月でしたが、その頃の大学生活はどんな感じでしたか? 升:大学は2000年ぐらいまでは結構行ってたんですけど、そこで大体単位を取り切ったので。「天体観測」以降あたりは、あんまり関係なかった感じですね。週に2回行って、テストを受けて、バンドやりつつ大学も行ってたくらいのバランスでした。で、たしか『オールナイトニッポン』の後に卒業式だったんです。 ――当時は『BUMP OF CHICKENのオールナイトニッポンR』のレギュラー出演もありましたね。 升:毎週火曜日の深夜に生放送でやっていたんで、大変でしたね。いつも深夜12時くらいにニッポン放送に集まって、タクシーチケットをもらってタクシーで帰る、みたいな感じで。で、その日はラジオが終わって、家に帰ってからスーツに着替えて卒業式に行って。卒業証書をもらった後に、謝恩会的な集まりがあって。その後に二次会に行く人は行って、家に帰る人は帰るみたいな感じだったんですけれど。その時にトイレに行って、個室入ったらそこで寝落ちしちゃって。気づいたら真っ暗で「やべえ」ってなって。ちょうど用務員さんが校舎の鍵を閉める直前で、危うく閉じ込められるところだったんですよ。みんなはもうとっくに帰ってて、友達に電話したら、「お前、だいたい授業の後にライブやってたりするから、そういう感じかと思って置いて帰ってきた」って言われて。で、帰ろうと思って。で、またトイレ行きたくなって。隣駅のデパートのトイレの個室でまた寝落ちして「閉店です」って言われて起こされた。ヤバかったですね(笑)。それだけ忙しかったってことだと思います。 ――2002年8月には「B.O.C Presents BAUXiTE page1」でハックルベリーフィン、BURGER NUDS、Syrup16gとの対バンツアーをやっています。当時のバンドシーンの中で象徴的な並びだと思うんですが、彼らとはどんな風に仲良くなっていった感じでしょうか? 升:単純にライブを観て、楽曲とパフォーマンスが好きになって、という感じでした。年もそんなに離れてないし、普通に話してて楽しいし。「BAUXiTE」は貴重な対バンツアーができたなと思いますね。いろんなところで対バンをやってきて、戦友的な気持ちもあったと思います。で、ファイナルが高知だったんですけど、そこはすっかり打ち上げっぽい感じでしたね。カツオの叩きを食べたりとか、みんなで花火をやったりして。こういう風に今まで一緒にやってきた人たちと対バンツアーを回るというのはなかったんで、とにかく楽しかったですね。 ――2004年には地元の佐倉市民体育館で招待制のフリーライブもありました。これはどんな思い出がありますか? 升:これはスタッフからの提案だったんですけど、古い友達も来てくれたし、学校の先生も来てくれたし、やっぱり感慨深かったです。そもそもライブをやるような場所じゃなかったし、あそこでやらせてもらったのは本当にありがたかったですね。ただ、始まってわりとすぐに床が抜けてしまって。スペシャの中継も入ってたのに、ずっとMVが流れているという。今思えば、誰も怪我しなくて本当によかったと思います。 ――2004年には韓国の「Busan International Rock Festival」の出演もありました。海外での初ライブはどういう経験でしたか? 升:釜山は海水浴場みたいな場所で、面白い会場でしたね。で、言葉が違ってもちゃんと音楽が伝わってるのが客席から感じられて。それもすごく嬉しかったですね。
藤くんに「鹿の筋肉みたいにやってよ」みたいなことを言われて
――2004年8月には『ユグドラシル』がリリースされました。アルバムの制作を振り返って、どんな記憶が残っていますか? 升:『ユグドラシル』を作るぐらいの時からアメリカ人の先生にドラムを習うようになったんです。このあたりから藤くんの書く曲のリズムの幅もどんどん広がっていって。「乗車権」の変拍子的なリズムとか、「embrace」とか「fire sign」とか「スノースマイル」の跳ねてる感じとかもそうだし。自分にない手札をどんどん増やしていった時期ですね。 ――それまでは独学だったドラムを、プレイヤーとして捉え直そうという感じがあった。 升:そうです。それまでいろんな人に断片的に教えてもらったり、聞いたりしていたのが、しっかり人について習うようになりました。『ユグドラシル』は、それまでやったことないものをどんどんやっていった感じでしたね。「ロストマン」でドラムを重ねてみたり、「車輪の唄」でブラシプレイをしてみたり。あくまでその曲が求めるものですけれど、そうやってドラマーとしてのいろいろな幅にチャレンジしていた感じです。 ――『ユグドラシル』で升さんの思い入れの強い曲、当時の光景が思い浮かぶ曲を挙げるならば? 升:「車輪の唄」のブラシプレイは「できるの?」って感じだったんですけれど、やってみたら結構いい感じになりましたね。あと、「オンリー ロンリー グローリー」はレコーディングで藤くんに「鹿の筋肉みたいにやってよ」みたいなことを言われて、一生懸命やった覚えがあります。すごく時間がかかったけど、グルーヴィーに仕上がったなと思います。「sailing day」は仮デモがない状態で、レコーディングでもクリックに対してドラムから録るというやり方をして。大変だったのを覚えてます。 ――この年にはツアー「MY PEGASUS」も開催されました。この頃のツアーについてはどんな記憶がありましたか? 升:この頃は、午前中にどこかに遊びにいってましたね。鹿児島のライブが終わった後、指宿の砂蒸しに行ったら、翌日にだるくなったり。今だったら絶対しないようなこともしてました。身体のことを何も気にしなくても大丈夫だった頃ですね。 ――そして12月にはツアーファイナル「PEGASUS YOU」が幕張メッセで開催されました。当時としては最大規模のライブだったと思いますが、どうでしたか? 升:2daysだったんですけど、個人的に1日目は完全に飲まれてガチガチでした。ちゃんと1対1で音楽を届けようと思ってツアーをやってきたんですけれど、飲まれてしまったのはすごく悔しくて。2日目もビビってましたけれど、しっかり前を向いて、ちゃんとメンバーを見て、お客さんの顔を見てやりましたね。ライブをする時のマインドをちゃんと自分の中に確信的に持ってないといけないなって、改めて思い知りましたね。もちろんそれまでもそういう気持ちはあったと思うんですけれど、その意識を確認するきっかけになったと思います。 ――『jupiter』から『ユグドラシル』の時期を振り返って、升さんにはどういう変化があったと思いますか? 升:『FLAME VEIN』とか『THE LIVING DEAD』の頃は「バンドをやっている」という感じだったのが、ちゃんと「ドラムを演奏する」っていうところに意識が向き始めた時期だったと思いますね。おせえよって感じだとは思うんですけど(笑)。少ない手札でやってたところから、曲が求めるものを表現するために、自分の担当する楽器にしっかり向き合うようになっていった。単に上手いとか下手だとかというより、その曲がベストな状態で聴かれるにはどうすればいいかという。そこで「こうしたいけどできない」っていう葛藤もどんどん増えていった時期だと思います。 ――リスナーとしての升さんはどうでしたか? どんな音楽を聴いてましたか? 升:Radioheadはよく聴いてましたね。Belle and Sebastianも好きでした。同時代の洋楽をすごく聴いてた気がしますね。それと同時に、U2とかThe Policeとかを後追いで聴くようになったり、それまで触れてこなかったものも聴くようになって。それまで自分が聴いてたのは基本的に90年代のオルタナとかバンドものだったんですけど、アメリカ人の先生にドラムを習うようになって、80年代のSteely Danとか、スタジオミュージシャンが技巧を凝らして作り上げるような作品を聴くようにもなった。いろんな聴き方をするようになった時期ですね。
遅いかもしれないけれども、プロになっていった
――2006年の2月11日で結成10周年となったわけですが、そもそも、こういう風にバンドがアニバーサリーを祝うようになったきっかけは? 升:この年に「run rabbit run」のツアーがあって。その2月11日、福岡の1日目の時にアンコールで「BUMP OF CHICKENのテーマ」をやったんですよ。その前のどこかで決めたんだと思います。この頃、だんだん「デビュー何周年ですね」みたいに言われることが増えてきて。でも、デビューって、あんまり自分たちではピンときてないんですよね。「ダイヤモンド」でメジャーデビューだけど、その前にアルバムを2枚出してるし。じゃあ『FLAME VEIN』なのかっていうと、その前に500枚限定のCDを出しているし、そうするとリリース日なんてもうよくわからない。バンドのスタート地点を自分たちから発信するなら、そこからさらに辿っていって、結成日がいいだろう、と。で、結成日はこの4人で初めて外に向けて音を出した日がいいんじゃないかという。それで2月11日になった感じです。 ――そこで升さんの記録がしっかり残っていたことが大きかったと思うんですが、改めて、それはどういう理由が大きかったんでしょうか? 升:記録が好きなんです。もうそれとしか言いようがないです。その後の何かに役に立つとかは特に考えてないですし、コレクター気質みたいなものに近いと思います。 ――では、最後に聞かせてください。1996年の結成から2006年までの10年間は、BUMP OF CHICKENにとって、ご自身にとって、どんな時間だったと思いますか? 升:やっぱり、ミュージシャンとしてしっかり音楽に向き合っていった時期だったと思います。遅いかもしれないけれども、プロになっていった。もちろん初期からチケットも手売りしてたんで、お金をもらっているという意味でのプロ意識はあったと思うんですけれど。それよりも楽曲に対しての意識が大きくなっていった。必要なものを最適な形で、最適な演奏で伝えたいという。当たり前なんですけど、そういう風に楽曲に向き合うようになっていった時期だと思います。
取材・文 / 柴那典